カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー
Weber, Carl Maria Friedrich Ernst Freiherr von
独 1786 - 1826
父のフランツ・アントンは、オイティン市の音楽家であったが、カールが生まれた次の年の1787年、その職を辞し、旅回りの劇団を設立。カールをモーツァルトのような神童にと望んだ。モーツァルトの妻コンスタンツェは、フランツ・アントンの姪。カールは父の劇団で音楽を学び、1797年にヒルトブルクハウゼンのヨハン・ペーター・ホイシュケルにピアノを師事。1797〜98年には、ザルツブルクでミヒャエル・ハイドンに作曲を学んだ。11歳でオペラの作曲を始めるが、初期の作品は消失したものが多い。
1798〜1800年、 ミュンヘンでヨハン・ネーポムク・カルヒャーに、1803〜04年にはウィーンでフォーグラーに師事。
フォーグラーの斡旋で、18歳でブレスラウ(現 ヴロツワフ)の劇場で楽長となる。2年間の契約終了後は、シュレジエンのカールスルーエでヴュルテンベルク・エールス大公オイゲン・フリードリヒ・ハインリヒに、また1807年にはシュトゥットガルトのヴュルテンベルク大公ルートヴィヒに仕える。
1813年、プラハのエステイト劇場のカペルマイスター。
1817年、ドレスデン宮廷劇場の音楽監督(後にザクセン王国作曲家)となり、それ以降終生同劇場でドイツ・オペラを指揮。
ドイツ・ロマン派初期の作曲家のうち重要な位置を占める。独語による歌劇の確立に尽力、ワーグナーに繋がるドイツ・ロマン派歌劇「魔弾の射手」を作曲し、1821年、ベルリンで初演。
ピアニストとしても優れ、即興演奏を得意とした。
ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場から依頼された「オベロン」の初演指揮のため渡英、初演後ロンドン滞在中に肺結核で死去。
代表作:
クラリネット五重奏曲
◆ピアノ
ソナタ 第1番 ハ長調
ソナタ 第2番 変イ長調
ソナタ 第3番 ニ短調
ソナタ 第4番 ホ短調
舞踏への勧誘 Aufforderung zum Tanze op.65
◆管弦楽
交響曲 第1番 ハ長調
交響曲 第2番 ハ長調
大序曲 Grande Ouverture変ホ長調
◆協奏曲
ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 op.11
ピアノ協奏曲 第2番 変ホ長調 op.32
クラリネット協奏曲 第1番 ヘ短調 op.73
クラリネット協奏曲 第2番 変ホ長調 op.74
ファゴット協奏曲 ヘ長調 op.75
◆オペラ
アブ・ハッサン Abu Hassan
魔弾の射手 Der Freischutz
オイリアンテ Euryanthe
オベロン Oberon
作品:管弦楽曲DB
作品:オペラ名曲辞典
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