海外旅行へ

 ロス・サンフランシスコ・シアトル

 

 ハワイからロスへ飛んだとき、夜、大きな街の灯が足元にひろがってきて空港に着いた。(1965年9月

伊崎正勝君(医学部同級生)の姉さんMizue夫妻に迎えにきて戴いた。ホテルではなくホ−ムステイさせて戴いた。

 翌朝、近くのマ−ケットへ買い物へゆくという。すぐカメラ片手についていった。

今でこそ日本でも日常普通に見られる風景になったが珍しかった。

   

 その日はお休みの日だったので、車で市内を案内して戴いた。ガソリン・スタンドへより、トイレと地図があるのを知った。日本人街、City Hall、浄土宗の寺、お墓のあるきれいなMemorial Park、教会などなど、スナップショットを撮りまくった。

 共稼ぎの方たちで、鍵を私にあずけさっさと出かけていった。

一般のアメリカ生活の様子がよく分かった。近くの小学校をのぞいたり、街を一人歩いたりした。

 

 約束していたDr.PearsonをGeneral Hospitalに訪ねた。

 彼は後日土屋健三郎君が「疫学入門」(医学書院)を出したときその本の中で紹介した「疫学的手法の学習課程学習」の著者である。

 病院内を案内してくれたあとプ−ル付きの自宅へ案内してくれた。

 

 奥さんや大学生になっていた男の子二人と娘さんとプ−ルサイドでビ−ルをのみ、車でレストランへ一家そろって夕食を食べにでかけた。ガソリンスタンドの支払いがカ−ドであったこととか、車のパ−クをするときのこととか、レストランへついたら、一人一人メニュ−をわたしてあれこれ十分時間をかけて選ぶことか、いろいろ勉強させて戴いたことが記憶にある。

 UCLAへゆきHealth Science CenterとかMedical Buildingとか案内された。

Dr.Chapmanにもあった。美人の秘書がきになるのかよく顔を出した。

  

 Dr.Pearsonが 買ったばかりにダットサンのオ−プンカ−で空港まで送ってくれた。

 

 ロスには、後日ミネソタからもう一度訪れたことがある。

 雑誌「Geriatrics」からの依頼があって「The relationship of the salt intake to hypertension in the Japanese, Geriatrics,19,735-744,1964.」を出してもらったこともあったので、アメリカの老年医学会をのぞいてみるためであった。

アメリカの学者はいろいろの学会のうちで鼻にもかけぬような学会があるのではないかと受けとられるのであるが。

 ロスの大きなアンバサダ−とかいうホテルが会場であった。玄関で車をボ−イが受け取る仕組みとか映画をみているようであった。コンピユタ−で弾道とか距離が示される仕組みのあるゴルフの練習場があった記憶がある。

 

 スポンサ−がついていたのか、そろそろアメリカで話題になってきていた「老人相手」の街とか家の宣伝のコ−スがあって、モデルル−ムに案内されたりした。終わったあとデイズニ−ランド見学のコ−スがあったので申し込んだら学会が終わったあと連れていってくれた。

 

 そのほか、サンタモニカの海岸とか、美術館とか、マリリンモンロ−の手形があるスポットとか、この時もMizueさん夫妻に案内していただいた。

   

 

 サンフランシスコにもNIHのプロジェクトがあった。

 Stalone先生はちょうどワシントンに行って留守で会えなかったが、紹介されたDr.Ehrlickに会った。人の良い先生であった。有名なTelegraph Hill からGolden Gate Bridge へ案内された。公園の中に日本庭園もあり案内されたが、男の人が子どもを背負っているのをスナップしたら、お前は社会学者かと云われた。

 

 山本幹夫先生がDr.Symeのところに滞在していた時だったので、私の宿のYMCAで待ち合わせをして、No.9 Fishermen's Grottoのレストランへいった。思い出のある場所で何年か前同じ店を訪れた話は前に書いた

 

 坂のある街で観光バスにのった。

またケ−ブルカ−電車にのって美人にあってスナップした話も前に書いた

 

 JALの吉原さんにGolden Gate Bridgeから河向こうの巨大な樹のある公園へドライブして案内して戴いた。ケ−ブルと樹の大きさを示すために娘さんを前においてスナップした。

    

 

 サンフランシスコからポ−トランドへ飛んだ。

 尾山教授の紹介でMr.Kellerの家に泊めて戴いた。

 

 農家であったが、すべて「ホ−ムメイド」「手ずくり」が自慢であった。奥さんが60歳もすぎた方であったが、赤い洋服を着ていた。後日西目村でこのスライドを見せたら婦人会の三浦さんなどが「私達ももっと赤くかざらなければ」と感想をのべていたことが思い出される。

 この時日本からのお土産として”竹のかご細工”を持参したことを思い出す。

軽くて良いからと選んだものだったが、アメリカへ着いてみて知ったことは、「湿度」が低い国であることであった。せっかくの細かい細工が「ささくれだつて」しまったのであった。

 

 シアトルにもNIHのプロジェクトがあった。

王さん一家とか、多くのドクタ−達にあった。

 

  

 

小型のコンピュ−タを造ったといっていた。ラボの女の子の指にダイヤモンドが光っていた。

夜のスペ−スニ−ドルが美しかった。

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