海外旅行

 

その7 南まわり帰国

 

 「もし時間がゆるなら私もこの島で一夜をおくりたい。だがカイロからあとの南まわりのスケジユ−ルはちょっとの変更もゆるさないようにつまり、8月12日には羽田につかなければならない」(コス島の旅より

 アメリカにいたとき「南まわり」での帰国考えた。

ヨ−ロッパ一巡はユ−ロパスの車内泊、またホテルは安宿へ飛び込みで泊まってまわった。でもどこでも清潔で安全であった。

南まわりはそうはいかないとふんだ。

日本への航空券は一枚でそれぞれ通過であるので、カイロ・カラチ・カルカッタ・バンコック・ホンコンと超一流のホテルを一泊づつ予約した。手持ちのお金でとまれると考えた。そのように計画してよかったことは、それぞれよった空港で「泊まりはどこ」と聞かれたときに有名ホテルの名前だとあまり変な顔をされないで通してくれた。 

カイロ

ナイル河のそばにあったホテルへ泊まった

すぐ河向こうの近いところに ピラミッドがみえた

観光のハイヤ−に数人でのった

一つ一つの石を歩いてのぼって 内部へ入った

   

カメラを手にあるいていたら らくだにのった人がさかんに写真をとれという

あとで撮影の料金をとられると 聞いていたので 遠くからズ−ムでシャッタ−をおした

観光のハイヤ−は最後に香水店によった 何やら買わされそうになったので 金がないからといって 早々とホテルへひきあげた

博物館でミイラなど見物した

イスラムについての予備知識は全くなかった ド−ムがあり 中へ入ってみた

 

車 と 水を運ぶ車が目に入った

 

カラチ

パキスタン独立記念碑があるというので 若い男の子に案内してもらった

チップのくせがついていたので 若干渡そうといったら

”my duty”といって 受け取らなかった

カルカッタ

カルカッタ一番のホテルへ泊まった 部屋にエレベ−タへで一人が案内した

トランクを運ぶ人は別に階段を担いであがっていった

トイレの調子が悪かったので ベッドメイキングにきた女の子にいったら

”I am not a shower girl”といって 別の人を呼んだ

 

インドの街中をあるいてみて 何がなんだか わからなくなった 

アメリカでは またヨ−ロッパでは 大体予備知識で理解できたのに

記念の建物があった

バンコック

タイ・バンコックでは帝国ホテルと名のついたホテルへ泊まった

空調の装置がうるさくて 寝られなかった

街に出たら 丁度日本の終戦直後のような様子だった

 

しかし伝統のある建物が目に入った

   

ホンコン

バンコックからホンコンへの飛行機にのったら 幼稚舎同年の服部禮次郎君が乗っていた

丁度アジヤ体育大会に「セイコ−」の計時システムを売り込みにきての帰り便ではなかったか

時計といえば 私の初めての海外旅行へは国産のセイコ−の腕時計をもっていきたいと思って 銀座和光で服部君をたずねて購入したことを思い出した 一年間無事に時をつげてくれたが 

ホンコンへ着いたとき 香港在住の三田会の先輩が彼を出迎えていて おかげで私も一番先に入国出来た

私の予約したホテルは彼の言葉によると「おそれおおくて」のペニンスラ・ホテルであった

広い部屋であった

フェリ−にのり 向こう岸へいってみた

慶應のプ−ルでみたことのある小池禮三先輩がここを泳いでわたったという戦時中の話を思い出した

  

 

夕食は香港の夜景の見えるレストランへいったことが記憶にある

翌日空港からいよいよ日本へ

窓のそとに「青い美しい島々」がみえてきた

羽田について私が降りてきたときは すぐ分かったとは 家内の話だった

もう飛行機には乗りたくないというのが 正直な気持だったが 丁度台風で 青森への鉄道が寸断されていた時で

青森空港へが唯一の道であった

追加

文部省へ在外研究の報告書を出した

コピ−をとっていなかっったので 正確ではないが

「何々先生のところで・・・といった計画書を出す時代ではないのではないか

日本での研究成果を 海外に 知らせる 努力を するべきではないか」と書いた記憶がある

私としては 一年間の出張は 共産圏を除いて 世界をみる機会が与えられて 本当によかったとの思いがある

考えてみると 太平洋をわたり アメリカ大陸を横断し ヨ−ロッパを廻り 南廻りで帰国したことは 明治維新のあと 岩倉具視一行が「国に光をみる」という「観光」をしてきたのと ほぼ同じ道を歩いたことになる

 その記録を残した久米邦武を また「西洋事情」を書いた福沢先生のような先人のことを 思った

長與専斎は「衛生」を取り入れた 北里柴三郎はコッホのもとへ 高木兼寛はイギリスへ

  森林太郎はドイツへ 「げに東に還る今の我は 西に航せし昔の我ならず」と「舞姫」に書いた 

私の場合は彼女が日本へおいかけてくることはなかったが

鈴木梅太郎はフィッシャ−先生から 日本独特の研究をしたまえといわれて オリザニオンにたどりついたと いわれる

今から35年前 こんな思いが 文部省への報告書を書かせたと今思う

教室の抄讀会で 数ヶ月かかって 私のスライドを 披露した

講義に 講演にも 活用させて いただいた

「コス島への旅」が最初であって 「衛生学はコス島への旅からはじまる」と述べた

色々なテ−マ別に スライドを整理したことがあった

「アメリカの生活」「ミネソタ大学のこと」「図書館のこと」「たばこの話題」「冬の生活」「世界の便所」「世界の住宅」「CARの話題」「世界の食生活」「疫学の原点」「世界塩の旅」「美しい公園」そして「世界美人シリ−ズ」(女子学生から美男シリ−ズをと注文があったが)などなど

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