「事後法」とは「行為時に法律上犯罪とされていなかった行為を、後で制定された法律によって処罰することを禁ずる原則」とあった。
また「法は遡及せず」ともいわれる。「遡及」とは「過去にまでさかのぼって影響を及ぼすこと」で、そしてこの原則は国際的にも認められているともあった。もっともなことだと思った。
しかしドイツの国際裁判で、ナチスの犯罪に対して弁護士が「事後法」をたてに弁護し無罪を主張したが通らなかったという記事を見た記憶もある。
ロ−マ時代の遺跡をみると”書記”といわれる人達の家が立派なのに驚かされる。
ナポレオンが「余が法律である」とかいったという記憶があるのだが、覇権をにぎった人がその人の都合のよいように法規をつくるとなればそうなるのかなとも思った。
日本が国として外国、当時は中国であったが、対等の付き合いをしたいと、「日出ずる国として」、律令制度を作りあげたとき、法規を作ったとあった。
江戸時代中期の1744年頃八戸藩の城下で開業していたといわれる医師安藤昌益は「古代中国に聖人があらわれ帝王となり、その地位を維持するために法律や制度を定めたことから始まった。この法律や制度はすべて人為的なものであるという意味から(法:こしらえ)とよんだ。理想の社会は(自然世)であり、現実の封建社会における身分制約秩序とそこから生ずるさまざまな退廃現象をきびしく批判した。人間を含む天地万物をなす原理を(活真)とよび、平等主義で、人間みずから(直耕)するのが正しい生き方といった」とあった。このような思想はどこからきたのであろうか。
日本が明治維新以後士農工商が形をかえて、立身出世は末は博士か大臣かといわれたが、軍と官僚が巾をきかせた。軍が無くなった今、官僚だけが残った。東大に南校があって官僚を育てた。その官僚の中心は東京帝国大学出身者による大蔵官僚であった。その東大の中に東校ができたいきさつは何であったのであろうか。
その東大とその後できた京大出身者をあつめて北里柴三郎先生を中心に慶應義塾の中に医学部ができるのであるが。
最高裁判所長官の横田喜三郎氏(96才)が「法律というものは、本質的に保守的なものである。社会の世論が成熟することによって、世の中の推移によって変わってゆくものである」と述べたとあった(朝日5-2-19)。
これを「天声人語」で読んだとき書き留めたのであるが、”成熟”はどのようなことを云うのかと思った記憶がある。
東西ドイツが統一されたあと、東ドイツの法律関係者は職を失ったという話を聞いたことがあった。それまでの東ドイツの法律が基本的に変更したからであったのであろう。
田中角栄総理の時代の話として、”目白参り”ということがいわれていた。そのわけは法律を自分が作ったからまたその抜け道というかそんなことがわかるのでそれを聞きに人が集まるのだという話があり、解説があった記憶がある。これももっともなことだと思った。
これらがノ−トに書き留めていたことだが、自分がやってきた医学の世界はどうなっているのかと考えてみた。後の時代になって判明したことをもって、それ以前の学説を批判しても始まらない。
「病は世につれ 世は病につれ」と書いたのだが、医学思想の歴史的展開をみると、時代とともに病気・健康に関するその時その時の医者が色々考えて医療を行い、医学者は研究を行っていた様子が伺われる。
「その時・歴史が動いた」という放送をやっているが、「その時・学者は何を考えたか、どのような証拠にもとずいて」が問題なのではないか。
ロンドンで「コレラ」という病気が流行したとき、その原因を当時一般に考えられていた「空気による伝染」(伝染という考え方は梅毒の流行について考えたフラカストロによると云われている)ではなくて、「水」による伝染であるに違いないという考えを疫学的研究といわれる方法で証明し、対策を立てたジョン・スノ−を「近代的疫学」の出発点と考えるのであるが、それは「病原体」といわれる「コレラ菌」が同定される30年も前であったという事実である。
分かってしまえば小学生でもその説明で納得されるような事柄でも、それが分かる前はいろいろと頭をひねるのではないか。
「事後法」的に考えれば、あとから色々いってもはじまらないのではなかろうか。
「脚気」という病気がはやっていた時に、「脚気菌」を報告した方もいたが、高木兼寛はその原因が食生活にあると推論したことが語られている。世にいう「ビタミン」発見の前の時代である。そのときの推論は「窒素」と「炭素」の割合であったといわれる。栄養学もカロリ−・蛋白質・糖質・ミネラルの時代であるから、脚気の多い日本ではコメ食であり、脚気のない欧米では肉食が多いから、ミネラルの窒素と炭素の比に相違がでるのは推測されるが、この推論は実際にはコメ食のかわりにパン食にしたという話に繋がる。「ビタミン」ならぬ「オリザニン」が精白米によって失われることが分かり、兵食を白米から麦飯に変えるのに30年もかかった話がある。高木は「脚気」がなくなればよいではないかと云ったと書かれている。
私の場合、東北地方に「あだり」といわれる「脳溢血」が若い年齢から多発していたことの予防を目標に、その謎解きの40年であった。
探偵小説では頭の良い方がその筋道を考え小説に仕上げるのだろけれど、人間の病気の謎は解ききれるものではないという立場である。可能性があると考えられる中で、何が蓋然性が高いかを見抜いてゆく過程が疫学的研究の過程であると考える立場である。疫学者として。
高血圧と関係があり、人間の食生活の中の食塩過剰摂取に関係があり、りんご摂取がその予防に関係があり、これらの関係は人それぞれであることを明らかにしてきたと思うのであるが、あれから四十数年、「病は世につれ変わって」いる。(20011215)