「一隅を照らす」のこと

 

 「一隅を照らす」とは「これすなわち国の宝」といって、「社会の片隅でもよい、必要とされる人物となれ」「縁の下の力持ちになれ」という意味で、戦時中でも戦後にも国民的スロ−ガンとなって、かなりの方々が喋ったり書いたりしている。 

 この言葉の出所は、「天台宗を開いた仏教大師最澄が求めた理想的人間像を書いた山家学生式」に由来すると云われている。事典にも「照干一隅此則国宝」とある。

 ところがこの出典の最澄の自筆原文の国宝「天台法華宗年分縁起:略称・山家学生式」をみると「干」(かん)ではなく「千」(せん)とも読めるという。そこでその読み方によって仏教界では論争があるという。「千」なら「千里を照らす者となれ(一隅を守りながら)」という。すなわち「照*一遇」は中国古典(史記などの)にある「照千里・守一隅」を縮めて引用したのだと。この論争について「中国仏教協会から(千里を照らす)と解釈すると回答があった」とする記事(毎日・昭50.5.29)があった。

 人間の到達すべき理想像として、「干」か「千」によって、大分意味するところがことなるから、仏教界で論争がおこるのは当然であろう。

 最澄が「一隅を照らす人間を愛した小器量者」ときめつけられると、「宗祖はそんな尻の穴の小さい人物ではない」と原文にあたってみて、「千」(せん)と解すべきではないか、と論じたというのである。「一隅を守り、千里を照らす人材こそ国の宝である」と理解すべきであるという。

 この論争は私流に云えば「最澄に聞いてくれ」ということになる。

 ヒポクラテスの箴言に出てくるくる言葉「ARS LONGA」(技術はながい)が、「技術を習得するにはながい時間がかかる」とするか「その技術はながくつづく」とするかの論争に、「ヒポクラテスに聞いてみなければ」分からないと以前書いたのと同じである。

 「一隅を照らす」も「千里を照らす」も共に生きてゆく上大切な考え方であると思うが、個人的には「千里(せんり)を照らす」と読みたいと思う。自分の生涯をHPに入れている自分としてはそう思うのである。「光」ファイバ−が一般化しつつある今、「sasaki naosuke」と入れて「検索」すれば、世界中から私のHPにつながる世の中になったことを実感するからである。(20030317)

(一部日本医事新報に掲載:4134,14,2003.7.19)

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