21世紀へのメッセ−ジ−疫学による予防へ−

 

近頃思うこと

 

 1995年は「戦後50年」がテ−マであった。

 年があけて今年96年は何がテ−マになるだろうかと思いながら、日本医事新報の新春特集「炉辺閑話」に「先生」という題で「日本百年」の反省の意をこめて書いた。

 何故「日本百年」といったかというと、今からざっと百年前に日本は従来の学問にとってかわって、西洋の学問「科学」の中の一つの「医学」を学び始めたと思うからである。 今われわれが何気なく用いている言葉(日本語)も、百年前には当時の先人達はそれまでとは全く異なった「思想・学問」にふれ、それを苦労して日本語にして用い始めた時代ではなかったかと思うからである。

 「ソフィ−の世界」がベストセラ−になっているようであるが、「フィロソフィ−」が「哲学」に、「サイエンス」も「科学」といわれるようになった。

 福沢諭吉は「実学」に「サイエンス」とふりがなをつけていた。「フィジクス」を「窮理」といっていたが、やがて「物理」が一般に用いられるようになった。

 「フィジオロジ−」は「学」がついて「生理学」になった。

 「ゲズント」「ハイジン」ははじめ「健全」であったが、長与専斉によって「荘子」にあった「衛生」を行政の名称に当てはめ、それから「長く与え」られたので、「衛生」の概念が一般にいきわたった。

 「富国強兵 衛生の力こぶ」の時代であった。

 昭和38年第16回日本医学会総会が大阪で開催されたとき、梶原三郎は戦前の日本の衛生学の特徴を一言にまとめて「権力(官権)の衛生学、非民主的衛生学」と述べた。将来の衛生学については目下考察中といってそれを聞く機会を失してしまった。しかし「本来衛生学は前進すべき学で、他に委託できる事項は気前よくまかせて、自分は人間と環境(社会を入れて)との切線または切面に身をおきその事情を感得することに勤めねばならぬ」と述べたことは私の頭に強く残った。原島進と交流があり、共に戦後昭和25年に「予防医学」を創刊したとき、私が慶応義塾大学医学部予防医学教室にいたことが強く影響をもったものと今思う。

 日本衛生学会を主催したとき「理性に従って生活するかぎり健康にすごせるのだという信仰」の理を明らかにすることと衛生学を位置づけたが、最近は「ロゴス」は求めなければならないが、「パトス」もあり、「エ−トス」に対処しなければならないと思うようになった。

 

 「公衆衛生」の反省

 

 今から20年前本誌(公衆衛生,40,546,昭51)に「新しい名前がほしい」を書いたことがあった。戦後の「公衆衛生」のあゆみを振り返っての考えであった。

 戦後50年の中の一番の出来事は日本国の憲法が新しくなったことだと思うのだけれど、昨年の記事の中でそれにふれたものが殆ど見あたらなかったことは驚きであった。

 新憲法の中に登場した「公衆衛生」そのもとになったと考えられる「パブリック・ヘルス」について考えなければならないと思った。また1946年国際連合の国々がWHOの大憲章を作ったとき述べた「ヘルス」を考えてみなければならないと思った。それが日本ではどのように受け止められたか。

 また今後21世紀に向かってどのように変わってゆくのかを考えなければならないと思う。

 わが国には中国文化伝来の「公」と「私」があった。これが西洋でいう「パブリック」と「プライベイト」とは必ずしも同じではないのではないか。言葉を生んだ国々のそれぞれの歴史的背景を考えなければならないと思う。

 「洋学」によって「義塾」を創立した福沢諭吉は、亡くなる一寸前、「痩我慢の説」を新聞紙上に公表した。そのはじめに「立国は私なり、公に非ざるなり」と書いているが、ここでいう「公」「私」は「洋学」によるものと思われる。

 そして今「公衆衛生」という名称が行政の中から次第に消えつつある。国立公衆衛生院も近く名称が変わるものとささやかれている。

 もっとも戦後わが国に誕生した「公害研」も「環境研」になり、青森県でも「公衆衛生課」は「健康推進課」になった。これらの名称の誕生・変更のうらばなしを知りたいものである。

 以前わが国でいわれるようになった「成人病」の由来について、厚生省部内の資料によって検討する機会があった。

 「衛生」も「厚生」もその出所は明確である。わが国における「公衆衛生」についての事情を当事者が明らかにして下さることを期待したい。

 

 疫学による予防へ

 

 先日「解説・現代健康句」を津軽書房から刊行したが、その「句」の中の一つに「病は世につれ 世は病につれ」というのがある。

 人々を悩ましてきた「病」も時代とともに変貌している。「医」はそれに対処してきたが、何故人は「病」になるのか、その疑問をとくことに興味をもった人々の「学」が積み重ねられてきて現在にいたったと思う。

 私自身振り返ってみても、「脳溢血の成因についての衛生学的研究」を行った近藤正二らに次いでの「脳卒中・高血圧」の謎ときであったと思う。ただその目標は「予防」におき、当時国際的にいわれ始めた「エピデミオロジ−」(疫学)による研究の展開であった。

 中国伝来の「易」ではない。

 「疫学」については戦後来日して講演したJ.E.ゴルドンの「医学的生態学としての疫学観の発展」(公衆衛生,18(4),1−8,昭30)に強く印象づけられた。

 ヒポクラテス以来の考え方ではあるが、R.ベ−コンをへて、「近代的疫学」による「多要因疾病発生論」であり、また「追跡的疫学研究」の重要性の指摘であった。

 国際的にみても、私の関係した循環器疾患を中心にしたものではあったが、「すでにその病気に悩んでいる人を治すことだけでは本質的には救われない。予防を可能にする発生要因の探求に取りくまなければならない」と「疫学と予防」の会が誕生したのは1966年であった。

 「今こそ発想の転換を 疫学による予防医学を」を書いたことがあった(衛生の旅 Part 4)。わかりやすく言えば「治療医学から予防医学への発想の転換」ということである。「疫学」によって「病」の「自然史」がかなり明らかになってきた点を指摘した。従来の「医」は「患者」の「病」を出発点としたが、「病」以前の問題に対処しなけらばならないと思われるので、疫学の成果が一般に生かされるようにもっと力をそそぐべきではないかと述べた。

 今年1月に開催された第6回日本疫学会のテ−マは「疫学から予防へ」であった。その領域は広く人々の健康問題にわったていた。

 医学は解剖学から始まって、今世紀当初は生理学に大いに期待がもたれた時代であった。そしてこの百年いろいろな方面に学問の展開があった。

 だが人々の「健康」を主題にするときには「疫学」に正しい認識がもたれるようになり、それに力を(金も人も)そそぐことによって人々の健康はよりよい方向に変わってゆくものだと思う。 

                 (公衆衛生,60(4),234-235,1996)

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