平成9年5月9日朝、新聞に「佐藤雄治儀(行年74歳)病気療養中のところ5月7日午後10時36分永眠いたしました」と出た。
その日の午後火葬とあったので、うかがってお別れをしてきた。しっかりした顔をしていた。
惜しい方を亡くしたものである。
今年3月、「また所見がでて、手術するかどうか」と小耳にはさんだことがあったので、やっぱりむずかしかったのかと思ったりした。
もう十数年前だったか、「全快祝」の「大パ−テイ」での白いタキシ−ド姿の雄治君を思い出す。
耳元で「教授! ナイス・ショット!」といってくれた君を思い出す。
「先生」の一文に、身近には「ゴルフやスキ−の先生は沢山いる」と書いた「私にとっては先生」の一人だが、弘前市医師会報(234)の「HMGゴルフコンペの記録」を書いたきっかけは、平成4年5月の例会で津軽CCのコ−スを一緒に回っていたときの「HMGはいつごろからはじめましたかね?」の雄治君の一言であった。
私が昭和29年に弘前大学助教授として赴任してきたとき、雄治君は小児科荒川雅男教授のもとで助手、すぐ講師、助教授になった。義理の姉の福原輝先生が小児科でお世話になっていた関係もあって、それから長いつきあいになった。
私の「衛生の旅」にはいつも鄭重なお礼状を戴いたが、「佐々木教授のリンゴジュ−ス」は「これを飲めばゴルフ・ワンハ−フはできる」と書いたのが気に入ったのか、こっそり「あのジュ−スの処方は?」と聞かれたことがあった。医師会報(231)の「健康句」の一節に「医師会のゴルフの名手S先生も隠れた信奉者ではないかと思っている」と書いた「S先生」とは雄治君のことである。全くの私の想像から書いたのだが、今君のことを明らかにすることを許して戴けるものと思う。
あらゆることに細かく気を配っておられたようだ。人の為にも、自分の為にも、努力されてきたのではなかったか。
「このドライバ−に小さく鉛をはって」と「こっそり」みせてくれたことがあった。どちらかというと小さい体で、大きくゆったりとスイングして飛ばしていたフォ−ムは雄治君独特のものだった。
亡くなるまで「シングル」を持続していたのは感服のほかないが、それなりに努力されてきたのであろう。
プロゴルフ界なら「生涯獲得賞金」の記録にもなろうが、「生涯最多・ベスグロ・獲得賞」にふさわしい方ではなかったかと思う。