コレラのこと

 

 「もしもいつか、あなたがイギリスのロンドンに行くことがあったら、John Snowの”Broad Street Pump”のあとを見に行くことをすすめたい」と医学生への「疫学的アプロ−チ」に書き、「ロンドンの名所」として「これ一つみればあとは何もない」と「衛生の旅 Part1」に書いた「何の変哲もない裏通りの」その場所、今はJohn Snowと名付けられたバブがある 「Broadwick St. W.1」にあるその場所は、「コレラ」にかかわりのある場所であり、「近代的疫学の原点」としての場所でもある。

 コッホによって「コレラ菌」が報告されたのは1883年であるが、それを30年もさかのぼる、今からざっと145年前の1854年、コレラと称される疾病がインドからロンドンに入ってきた。その当時一般にはその病気の原因は「患者の放散する毒気を吸入するため」と何百年前からの「瘴気」(ミアスマ)学説の流れをくむ考え方で理解されていた。

 この時J.スノ−は「患者の腸管排泄物中に含まれる、自ら増殖し、最初と同一のものを次第に造りゆく物質が、主として飲料水を媒体として、人から人へと伝播するものであること」を信じ、彼のみごとな”疫学的研究”によって「コレラの伝播の様式に就いて」推定し、テムズ河からの水を配管し汚染源となったポンプ井戸を撤去するという対策を立てることができた、その井戸のあった場所なのである。

 インドのガンジス河流域の風土病であるといわれる「コレラ」が、西へ東へ蔓延し、1820年揚子江に、そして対馬からコレラが日本にもやってきた。

 「コレラ流行史」(中野操)によると、日本最初のコレラ大流行は文政5年(1822年)下関に初発したコレラと言われる。何しろはじめて経験する疾病で、民間では「横病」「鉄砲」「コロリ」「三日コロリ」といわれていたが、オランダからきた蘭書によってこれがコレラであることを知り、コレラを音訳して「酷烈辣」と称したり、コレラ・モルブスを直訳して「古列亜没爾(父巴)斯」あるいは「胆液病」という病名を付けたりしたといわれる。

 第二次のコレラ大流行は、安政五年(1858年)でアメリカの軍艦が中国に寄港したあと長崎に入港したことによった。当時長崎にはポンペがきていた時だったので、ポンペは公衆衛生といってもまだ未熟なものであったが、その立場からコレラ対策を考え、長崎奉行に建策している。内容は個人衛生的なものが主ではあるが、「コレラの増長を防ぐために、官憲の力で有害な食料の売買を禁止することが必要であるとしたことは、予防制度の沿革上注目すべき事がらである」と記されている。ポンペはドイツの大学教授の著書からコレラについて学び、また大阪の緒方洪庵にまで「キニ−ネ有効」の知識が伝わっていることが示されている。

 その後文久二年(1862年)文久三年(1863年)と流行があり、明治新政府になってからは、明治十年(1877年)清国から長崎に入ったイギリス軍艦が媒体となり長崎に患者が入ったのが始まりで、次いで横浜にも発生、予防法の不手際などからその後全国に広がった。

 現代まで常用される「虎列刺」の三字は明治二年にはじまるのではないかと考察されているが、明治四年(1871年)の石黒忠悳著「虎列刺論」には患者隔離、避病院の設置をのべており、明治十年(1877年)内務省は「虎列刺病予防心得」を布告し、「消毒薬中最有力ノモノハ石炭酸ヲ第一トス」として推奨していることからみると、すでにヨ−ロッパにおける新知識、コレラ菌発見以前ではあるが、食品の食用禁止などをわが国でも学んでいたことが伺われる。

 ここまでが今回の「コレラのこと」のはしがきである。

 

 今年(平成11年1999年)3月に千葉市で第69回日本衛生学会が開催された。

 千葉というと「コレラ」にちなんだところとして是非私には行って見たいところがあった。そのことを記録に残して置きたいということで筆をとった。

 

  昭和61年に刊行された「明治医事往来」(立川昭二著:新潮社)を読んでいたら「ある殉難碑」のことが書かれていた。

 「千葉県の鴨川といえば、ふるくから漁港としてまた外房の海水浴場として知られる。・・そののどかな浜辺の一隅から、線香のかおりとともに静かな読経の声が流れてきた。”列医沼野玄昌先生弔碑”という石碑の除幕と百年忌法要の集まりであった」ではじまるこの文章には、今をさかのぼる120年前のかなしくもあわれな医師の物語が書かれていた。

 「・・・明治十年全国に流行せるコレラが鴨川地方に浸延し、罹患するもの四百余名に及ぶや明治政府終いに官令を発して、先生をしてその治療と防疫に当らしむ。先生身を挺して急地にのぞみ、施療防疫に従事するも、恐怖に戦く大衆は消毒用薬液を反って毒薬の如く妄想し、ついに暴徒と化して、先生を急襲し、加茂川河畔において撲殺す。時に世寿四十二歳なり。・・・」

 この殉難碑のことを読んだとき、一度はこの碑をみておきたいと思ったのである。

 

 一日房総半島の先、安房鴨川まで足をのばし、その小さな殉難碑をみることができた。

 その碑は安房医師会などの手で昭和53年に新しく建て替えられたとのことであったが、加茂川の河畔「汐留の松原」の小公園にあった。鴨川市教育委員会の市史編纂係りから戴いた「鴨川市史:通史編」に「コレラ禍と一医師の殉難」に記録されていた。「死体検査証」もあったという。また日本医史学会(昭和14年)橋本鐘爾氏によって報告されたという。また事件当時の新聞での報道、またご子孫の方が小湊で開業されているとのことなども分かった。

 「夜半、ときならぬ早鐘が鳴りわたった。鐘の音にはやったのか、漁民数十人が手に手に竹槍をもち、逃げる一人を八方から追いかけ、ついにとりおさえ、竹槍で頭をはじめ数カ所を突き刺し、息絶えたとみるや、加茂川に死骸を投げ込んだ」とあたかもみてきたように書かれた文章もあった。

 このほかこの事件の目撃者としての高沢アキさんの述懐としての言葉があった。

 「この事件も一般の人たちの誤解からおこったもので、まことに玄昌さんもまた罪人となった人たちもお気の毒で・・・」

 井戸を消毒したのに毒薬をいれたとか、寺に病人を隔離したのを患者の生肝をとるためだとか、それを井戸にいれるとかの噂が広がったとあった。この事件のあと首謀者他数十人は、すべて相当の刑罰を受けたとのことである。

 昭和36年ふるい供養塔を訪れた詩人白鳥省吾の哀悼の句が紹介されていた。

 「いさをしを 仇にかへして 討てる人 討たれし人も あはれ松風」

  

 「明治医事往来」には新潟でおこった「コレラ一揆」のことも書いてあったが、青森県ではどうであったのであろうか。系統だって研究をしたわけではないが、私のノ−トに書き留めたことだけを書いておこう。

 東奥日報紙(昭40.10.14.)に座談100年史に「病気には予防法なし:明治19年コレラで四千人死亡」という記事が目にはいった。

 楠美鉄二「コレラは十年、十二年、十九年の三回」

 山口寿「予防のすべがないんですよ。紙に書いて”ここの家にコレラ”と書いて張ったなんて書いてますね。撫牛子の村ですが、あそこだけ明治十年に四十三人死んでいます」

 盛田文雄「一番多いのは十九年、これは四百二十カ所、六千五百六十四人の患者で、死んだのは三千七百七十四人、半分死んでいる」

 音喜多富寿「祖母などが話をしていますが、コレラがはやってまず、ゲ−ゲ−やると死んでしまう。それをもっていって川へ投げたりしたそうです。だからますますまんえんした」

 そして八戸の白銀のちょっと奥の高台に”コレラ平”という、死体や病人までもリヤカ−に積んで捨てにいった所があり、後の「コレラ病没者供養塔」が残っていることも記されていた。

 八戸市で夏の保健活動が行われた昭和49年、その場所を訪ねてみたいと探したことがあった。

 その時には白銀台から市内の白銀4丁目の福昌寺に三本の松と供養塔が移されていることがわかった。

 そしてまた馬や死体を投げすてたといわれる今測候所のある舘鼻のがけの上に「疫」「癘」「死」「三界」「萬霊」などの字がかすかに読みとれる供養塔があることも確かめることができた。

 また昭和49年三沢市に保健活動にいったときも、八戸でコレラがはやったとき「うずる」といって部落の人が皆逃げ込んだ「コレラの森」を高橋新太郎さんの案内でさがしたことがあった。米軍のベ−スの中だということでその森はさがしあてられなかったが、実際にそのときのことを経験した老婆からの体験談を聞くこともできた。また近くの寺により過去帳に明治19年にのきなみに死亡している記載のあることも確かめたことがあった。

 もう一つ記録して置かなくてはと思うのは、明治19年八戸町一円伝染病虎列刺(コレラ)大流行の事の記録として八戸市民生部保健衛生課より写しを戴いた奥山石雄氏の資料をみたことである。

 その資料には大流行の様子が事細かくのべられてあった。

 「小中野村の人が北浜に出稼ぎに行って熱のある病気に罹って帰ってきた。家の人がある日病人の吐瀉物をいつものように−当時の日常の生活の様子が書かれていた−川に捨て、その病人が使った椀や皿等の食器類を洗った。処がその病気が今でいう伝染病のコレラとも気が付かず、そのためコレラ菌が四方八方に広がり、八戸町中に蔓延したものでないか」との古老の話。

 「死者を入れる「ハヤ桶」(棺桶のこと)を作る人もなくなり」「路上の死者の数が増し運搬に手を貸す者が無くて、儲けた運搬人の五郎兵衛の話」「死体運搬人は頭に黄色い鉢巻きを頭にしていた」「舘鼻の岸頭−太古においては死者の身体は断崖から地に還り、そして天よりその霊は再び此の世に甦るものと云う信仰心があったという−馬捨て場でまだ息のあるコレラ患者を運び、崖の上から投げ捨てた話」「白銀平ならぬコレラ平の話」「あとで供養塔を建てた話」など書かれていた。

 その時代にはコレラは町内の予防係り(消防組員のこと。当時は消防のことを火災・火防衛生組合と称したものである)は路傍に石灰と石炭酸を散布し、硫黄を焚き町内の入口に見張りを立て、通行人には石炭酸を吹きかけ、夜は角火を焚き大騒動であった。当時の予防係・衛生班等と称するものは町内の消防組達の任務であったと。

 そしてその後大正十一年のコレラ流行の際の予防警戒その他の尽力をした湊消防組第一部に県知事から贈られた感謝状の写しが書かれていた。

 また仁平將君からの別の資料によれば「明治十九年八月二六日と二七日に、北海道の出稼ぎから帰ったばかりの五川目の漁民二人が激しい下痢と吐瀉をはじめ、医師が来診して感冒としたが、そのうちの一人が二八日に死亡した。村人たちはあまりの急死に、これがコレラという病気ではないかと疑いふたたび医師の来診を求めた結果、コレラと判明した。急報をうけた戸長は役場の筆生とともに現地に出張し防疫につとめ」とあった。

 

 昭和40年出来たばかりの市民会館で私が第35回日本衛生学会を開催したとき、青森にもご縁のある野辺地慶三先生に「コレラ雑感」と題して特別講演(日衛誌,20.180-185,昭40.)をお願いしたことを思い出す。

 

 そしてもう一つ「内閣桜をみる会」にちょっと書いたことなのだけれど、戦後私が復員収容部の検疫官として紀州の田辺にいたとき、まだコレラの情報のないときであったが、中国からの復員船に教科書でしか読んだことがなかったが「コレラ顔貌」の患者を診て、まずこの患者だけ陸にはこんだが死亡した。その時私の判断と責任で他の方々は防疫施設のない田辺には上陸させず、その船を浦賀へまわしたことがあった。その船中で次ぎ次ぎと病人がでてしばらく浦賀沖にとどめ置かれ何人か船上で亡くなったとのことであった。復員してきた方々が目の前に日本をみていたのに上陸できず、どのように考えていたのであったろうか。結果的には京阪神へのコレラの流行はくい止めたことになったと思っており、幸いに私は今生きてはいるが。医学を学んだ者の宿命か。千葉鴨川の殉難碑をみながら思ったのである。(990328)

(弘前市医師会報,264,84−87,平成11.4.15.)

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