衛生学教室のアルバムから(その2)

今回は先生方の写真をひろってみた

写真1 中三にて 昭和33.9.

古賀康八郎教授の送別会が中三で行われたときのもので、

うしろの列の左から 角田・臼淵・檜山・大池・照井・山本・諸富・帷子・槇

前の列 片桐・入野田・佐藤(煕)・古賀・副島・中村の諸先生そしてセルフタイマ−をおした佐々木である。

おおなんと皆若いことよ。時は丁度南塘グランドに大水がでたあとである。

写真2 昭和43.1.26. 両佐藤

大きい佐藤、小さい佐藤という言葉があった相だ。佐藤(煕)学長の退官記念特別講義のあとのお茶の会でのスナップである。

生理学あれこれ”の話の中で、”小さい工夫、私の話から何を得るかは諸君の頭にかかっている

といわれた。

写真3 最終講義をおえて 昭和43.3.1.

中村勉教授が最終講義のあと、学生からおくられた花束をもって部屋にもどられる時のスナップである。臼淵現学長と話をしながら。

背景の建物は、教授室のならんでいたもので、今はもうない。

写真4 メモをとる松永藤雄教授 昭和43.2.29.

”松永メモ”といわれるものは、大学・医学部にとって貴重な財産である。

歴史の記録がすべてもられている。最近評議会で隣に座って、

メモをとられる先生に感心している。

追加として先生方のものをすこしひろってみるみることにする。

写真 昭和33年夏教授会風景

教授会にでるようになって末席からスナップしたことがあった。

檜山・臼淵・中村・荒川・・・佐藤煕学部長・・古賀・佐藤光永・山本・片桐・諸富・和田・入野田

先生らの顔が思い出される。教授会の座席はとくにきまってはいなかったが、年齢順

とか、出身校別に左右されているようだ、と。(18号その8から

写真 副島廉治先生最終講義 昭和35.3.2.

演壇に立たれた先生が「かつては明治時代には・・・」と。外科が日本に入って来た頃の思い出、消毒や麻酔や器具、薬剤が不十分だった時の話、また医師の倫理にもふれられた。場所は今はなき南臨床講堂である。そばに息子さんの助手の清治君が録音をとっていた。(20号その10より

   佐藤煕・副島・荒川・松永       佐藤・副島・松永・中村勉・荒川・水平・槇

大池・中村正・赤石・品川     赤石・品川・和田・東野・帷子

丁度東北大へ転出することがきまった荒川雅男教授の送別をかね、副島・荒川両教授の送別会が昭和35年3月「中三」で行われた。当時のカメラマンは松永先生と私。

                    東野         赤石・佐藤煕・片桐・佐藤光永             

昭和34年に整形の教授に東野修治教授がこられた。あけて35年3月の卒業式に出ておられた時新しく来られた教授ということを意識してシャッタ−をおしたのであろう。あのころの卒業式は文理の旧弘高の木造講堂で行われ先生方も沢山でておられた。皮膚科の橋本功教授らが卒業した年である。(19号その9から

写真 佐藤光永先生 昭和42.3.13.

東北女子大学に勤務していた光永先生が亡くなったとき33号(その2)にこの写真をのせて書いた。

新しい医学部の基礎の校舎が出来上がったとき、明日は引っ越しという時に、基礎の教授会(水曜会)を古い校舎でやりましょうと集まったときスナップした一枚である。

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