衛生学教室のアルバムから(その22)
おしん、澪つくし、そしていのちと時代をおうドラマに、いよいよ弘前医科大学が登場してきた。
弘前大学医学部になっても、医科大学の学生がいたから、31年に教授になったときには、弘前医科大学教授の併任であった。
そんな時、医学部をあげて取り組んでいたテ−マが「シビ・ガッチャキ」であったことは前に書いた。
五所川原の近くの旧三好村はその中心地ともいうべきところで、藻川小学校などでは小学生の半数に口角炎がみられた。
写真1 三好診療所 昭33.7.
アルバムの中に、そのシビ・ガッチャキの研究が行われた記念すべき場所の三好診療所の写真があった。33年の夏の保健活動で歩いた時撮ったものだが、ここは小児科の荒川雅男先生の研究室の出張所のようなもので、ここから多くの研究論文がでたことは知る人ぞ知る歴史的ともいえる場所である。
こんな時われわれは口角炎をしらべる一方、津軽、南部、そして秋田まで足をのばして、血圧を測ってあるいた。
写真2 上郷村遠瀬小学校 昭29.7.28.
29年の夏、南部の三戸町と旧上郷村へいったことがあった。
写真2は僻地の小学校の一例の上郷村遠瀬小学校へ調査に行ったときのものだが、口角炎は少なかったが、集まった大人の血圧は高かった。こんな僻地の小学校のさらに二里も山奥からごく最近小学生がかようようになったのですよという話を聞いた思い出がある。それは後日保健福祉活動で加藤亮子さんや青山慎一郎君らがほりおこしをやった。もうそのときには田子町になっていた水亦の原始部落のことである。この小学校は今は新校舎に合併になって、もうない。
写真3 三戸保健所前にて 高橋・秋山・伊藤・武田・木村 昭29.7.30.
新設早々の三戸保健所があった。
「東北の豪勇、平泉の藤原三代の栄華の滅びた後を地味に治めてきた南部家の最も古い居城が三戸にある。弘前城に対照して人工の手が極めて薄く、自然の要塞のみを基にした古城である。その古い城下町は灰色で古色蒼然たるものがある。旅館穂積館の如きも裏手の崖に面して樫の大木があり、自ら古い昔の夢に引き込まれる様な所だった。
この古い町に最も近代的な触手として建てられた三戸保健所は、その構造に於いても、設備に於いても、この町には全く不釣り合いな感を懐かしめる程モダ−ンだ。秋山有所長その人もスマ−トな青年である。
一度こんなところに勤めて勉強してみたいと、若い学徒は考えてもよい。遺憾なことに医師として収入が充分でないこと、周囲の社会が静かに勉強させて置かないこと、結局医師の志願者がいない。
然しそれも時間の問題となろう」
と高橋英次先生がアルバムに書き残している。
先日田子町の健康まつりということで30年ぶりにいってみたら、町立の病院は新しくなり、例の「赤ひげ先生」こと横内正典君が元気でやっていた。
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