衛生学教室のアルバムから(その24)

                          

 この頃卒業20周年30周年記念のクラス会によばれることが多くなった。

 昨年は32年卒の三二三会、立派なアルバムを作っていた。そして今年は43年卒の会が先日法華クラブであり、33年卒の三三会のクラス会をこの10月1日プリンスで開催することになりましたので、枉げて御臨席賜りたくとの案内状を三三会在弘世話人一同代表高橋良平君から戴いた。

 昔医学概論の講義をやった時弘前での印象を書いてもらったことがあったが、弘前駅に着いた時のことを書いた人が多かった。そして可愛い女の子が街を歩いていることにおどろき、そして彼女がわからない津軽弁を喋らないといいがなと書いてあった。

 弘前に生まれ育った人は別として、弘前での第一印象は弘前への入口であった駅にはじまる。受験にまた入学の時に弘前駅に着いた時のこと、人さまざまに思い出はあることだろう。

 私は生まれたばかりの長男をだいて「上野発夜行列車にのって」弘前駅に着き、昭和29年に助教授として赴任してきたのだ。

 その頃の駅はどんなであったか。

 写真1がそれである。駅前の風景は(会報16号その6)にのせた。

写真1 弘前駅 昭和32.5.

 この駅で人を迎え、人を送り三十数年たった。

 初代の衛生の教授であった高橋英次先生を仙台の東北大学へお送りした時のスナップは(会報13号その4)にのせた。公衆衛生学教室ができた時、中村正先生を迎え、そして長崎へ送った時のスナップもある。前の学長の柳川昇先生を東京へ送った時のスナップもある。でも先生が病気になられた時は弘前がよいとまた弘前にこられた。

 そのほか国際学会に出発されることがあるとよく駅へ先生方を送りにいったものだった。入野田先生や久保木先生がインドでの眼科学会にいかれたとき駅に送った時のもある。

 そして弘前駅は今アプリ―ズのビルになり、写真2のようにすっかり変わってしまった。

写真2 弘前駅 昭和63.9.

 東野修治先生が弘前にこられたときの話を聞いたことがある。

 面白かったのは医学部への道順の説明をうけたその言葉のニュウアンスである。

駅をおりて、土手をまっすぐいって、坂をのぼり、火の見櫓がみえてきたら、そこを左へまがると、小学校がみえてくる。そこが弘前大医学部の校舎だ」と。 

 今も道順はそれに違いないのだが、いかにも・・・という感じである。

 公園・市役所の方から消防署・大阪屋の前の道を進むと校舎が見えてくる。それが写真3の風景であった。学校の方からみたところは(会報24その14)にのせた。

 そして写真4が現在である。目印の大木はなくなってしまった。そして木造の校舎のかわりに基礎の6階の建築物がみえてくる。

写真3 医学部への道 昭和32.      写真4 医学部への道 昭和63.9.

 医師会のゴルフをやっていたら、市内で耳鼻科を開業している西谷武一先生(昭28卒)が昔の校舎の写真がありますよと話しかけ、見せて下さった。

写真5 旧医学部玄関

 それが写真5である。門の前の看板が歴史的にみて貴重だと思う。弘前大学であり、青森医学専門学校・弘前医科大学・弘前大学医学部である。この3つがあることから推理すると昭和26年時の玄関であると思う。

 テレビの“いのち”はそんな時代の物語からはじまった。

 そして30数年たった今はゴルフである。

 佐藤熈先生が発起人代表になって岩木山百沢に昭和46年にオ―プン予定だった津軽CCもようやく十数年たってオ―プンして開場4周年になり、芝もよくなってきた。そのほか弘前から近いところにも沢山できた。平賀の奥にビジタ―専用の津軽高原CC、そしてびわの平CC,大鰐のスキ―場を横切って道ができたので行くのに便利になった大鰐ロイヤルCC,空港拡張のため9ホ―ルになり県の体協が引き受けた東奥CC,そして開学記念日に医学部コンペをはじめ、松永バンカ―があり(今はなくなった)27ホ―ル になった青森CC(通称あおかん)とゴルフ場も増えた。

 クラス会のあと懇親ゴルフがありますから、どうぞご参加下さいと案内を頂き、いそいそと出かけていく自分ではあるが、招待ゴルフではと遠慮される教授(鈴木壽夫先生の話)もおられるので、グリ―ンフィは各自ご負担下さいと添え書きしてあった方がいいなと思う今日この頃である。

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