衛生学教室のアルバムから(その27)

                  

 「衛生学教室のアルバムから」だから今回は教室関係の写真を選んでみた。それも歴史的なものを。

 といっても私が助教授として弘前にきたのは昭和29年だからそれからのものしかない。

 写真1・2はアルバム第1号にあったその年の暮れの12月26日の教室の抄読会の風景である。

 その日の夜は忘年会が予定されていたのだがその前に勉強をというわけで、如何に真面目であったかが分かろうというものである。

写真2 工藤・福士・羽賀・高松・高橋           写真1 高橋・武田・佐々木

 高橋英次教授を中心に武田壤寿助手(現教育学部教授)がイギリスの食生活についてBMJの文献を紹介しているところである。

 このほか伊藤弘助手(1回生現南黒医師会長)の最近の高血圧のアメリカの文献、私のCOとヘモグロビンの結合解離文献総覧、そして教授は人口構成に及ぼす社会的因子についてが当日の話題であった。

 すでにその後の研究に続く文献の抄読会が行われていたわけで、こんな風景は当時どの教室でも見られたことであろう。しかしその風景が皆の記憶にだけあるのではなく、このように写真にあるとなるとやはり貴重品であるとも言えると思う。

 弘前保健所長の高松功先生(故人)、教養で統計を受け持っていた羽賀與七郎教授(故人)、弘前保健所から青森衛生研究所にいた福士襄研修員(現教育学部教授)、4月迄助手で2内に移った工藤晃先生(3回生現在上北町にて開業)が写っている。

 

 この日の忘年会は「清和」2階で開かれ、教授以下能美光房保健所長(医大1回生現昭和大客員教授)、藤田良甫研修員(故人)、佐藤(現成田)尹さんなど11名で、会費五百円で盛会であった。

 「名幹事(伊藤) 酒は楽屋で泣いている」

 「アスプロ(佐々木)は 一年分をためて飲み」

 「羽賀先生 タケルタケルと にぎやかなこと」

 「青髭顔(武田) タニシドノ 蚤のきんたますりつぶし」 

など日誌に私の駄作が残っていた。

 「オリジナルはこうだと教授席を立ち」とあるのはたしか南方の(ブンガワンソロ)の歌がでたときではなかったか。

 「女気はありすぎたるが 一人欠け」とあるのは柴垣和子さんが欠席したのは幹事の連絡不十分と、またおしゃくに来た女性連の名前「しのぶ、えみこ、十郎、かずこ、ますみ、ゆきこ、てるこ、たえこ」など入れ替わり出没した、と日誌に書いてあるのは同じ29年に弘前にきた武田先生の筆である。

 

 それからざっと36年も経った平成3年9月28日の思い出に残る日に開かれた会食の写真がその3である。

写真3 武田・福士・高橋・福士・佐々木・伊藤・高橋・武田・佐々木 野の庵にて 平成3.9.28.

 高橋英次先生が弘前へ来られるという便りから今日の日の幹事役を引き受けたのも伊藤弘先生であった。

 奥様のお茶の会が弘前であるのが予定であったが、「家に一人置いておくのは心配で」という満八十歳になられた先生への気ずかいであったのであろうか。

 それがあの28日にあたってしまったのである。

 朝5時から6時ごろにかけて吹き抜けた台風19号は弘前地方にも大きな被害をもたらした。

 「台風一過 一千億」

 実りを前にしたりんごは殆ど落ちてしまった。

 そして停電であった。

 バカチョンカメラのフラッシュでうまく撮れているので感じはでないのであるが、その夜の照明は台の上のロ−ソクだけであった。

「しわやうすくなったのがわからなくよいわね」

 皆それぞれ元気で今日の日を迎えられた喜びがあった。 そしていちようにでた話題は昭和二十九年の「洞爺丸」台風のことであった。

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