衛生学教室のアルバムから(その29)

           

 今回は研究に関係のある写真を紹介しよう。

 

 青森県でいま高齢者を対象にした社会教育に「あすなろ尚学院」というのが開設されていて県内6地域で講義が行われているが、私に与えられた題は「成人病とその対策」である。 その講義で初めにしゃべることは「私が教授になりたての昭和30年代の頃ならこの題で喜び勇んで来たでしょう。いまはもうすっかり健康問題も変わってしまって...。おまけに皆さんはすでに成人病の年代を無事に過ごしてきた方々ではないですか。でも成人病という言葉が昭和32年に登場してようやく今になって世に定着したかと思うと感慨無量なものがあります。学問の成果が世に知られるまでに時間がかかるものです」と。

 

 脳卒中の研究班長であった冲中重雄先生が先日亡くなられた。

 先生が戦後アメリカへいって日本の脳血管疾患の診断がほとんど脳出血(脳縊血)であることが疑問であると批判をうけ、あらためて「脳卒中の成因、殊に日本人の特殊性」という研究班を昭和36年組織され、教授になりたての私にもご指名があった。

 秋田や青森での脳卒中や高血圧の疫学的研究の成果を学会発表をしていたのが目にとまったのかと思われたが、この研究班に関係のあった当時厚生省の企画課にいた私の同級のY君の推薦というのが本当のことらしい。同級生というのは有難いものだと思う。

 臨床方面は弘前では大池先生ということで私が推薦したのは事実だが、大池先生が鵬桜会報(37号、83頁)(おきなかのおきは二すいの冲である)に「脳卒中勉強しないかて誘ってくれたんだね。そんなことから当時の冲中先生とか、そういう先生の仲間に入れてもらったんだね。しかし、随分古い話になるね」と話しておられた昔のことである。

 そんな時の研究班会議の様子が写真1に示されている。

写真1 東大赤門学士会館にて 昭和37.11.30.

 まず診断基準ということでいわゆる「冲中分類」をまとめられた相沢豊三先生や新潟にいかれた椿先生の顔が写っている。ほかに勝木司馬之助先生などそうそうたる先生方が出席しておられた。(参考・日本医事新報2221号19頁

 

写真2 第6回世界心臓学会・ロンドン 1970.9.8.

  写真2はアメリカ在外研究をおえた後の昭和45年に第6回世界心臓学会がロンドンで開かれたときのもので、高血圧の成因のシンポジウム(円卓会議)の中で日本の実状を述べ食塩と血圧の関連を指摘し、地球疫学的に見なければならないことを述べたときの写真である。

 私にとっては記念すべきもので、いわばオリンピックの100メ−トルの決勝にでもでたような気分であったことを思い出す。

 

 写真3と4はそれぞれ青森県内での調査でご一緒した先生方の写っているものである。

 

写真3 五所川原市七和農協俵元にて 昭和44.7.21.

 写真3はりんご農薬としての「ダイホルタン」の皮膚かぶれが問題になったときのもので、皮膚科の先生方と県内を調査に回った。帷子教授と橋本君が写っている。この診断の姿は今もちっとも変わっていないのではないだろうか。

 

写真4 弘前市狼森にて 昭和48.9.4.

 いま医学部でもっとも忙しい教授といえば眼科の松山教授ではないかと思うのだが、私達が血圧を測ってあるいた地域で眼底写真などとって診断し、亡くなった入相野田公穂先生の班研究で報告したこともあった。

 

 それもこれも古い写真だが30数年の研究生活にこんな時もあったかなといま改めて思うのである。

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