健全な精神は健全な肉体に宿る
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉を「・・に宿る」と断定して云うのはどうやら日本だけの特徴のようである。それも体育の日などの挨拶に「体を鍛えれば精神も健全となる」という意味で云われることが多い。とくに長とつくような偉い人の挨拶の中で。最近の若い人は保健体育の講義の中でその言葉の由来を聞いているから、心の中で笑っているのではないかと思う。
都市国家のロ−マが地中海世界を征服してロ−マ帝国となって以来ラテン語が世界に通用する公用語になった。文学もラテン語で書かれた。ラテン文学史の一時期の諷刺詩人ユウエナ−リス(Juvenalis,60-130)の詩の中で「mens sana in corpore sano」と云っている。国原吉之助訳によれば「・・・こう願うがよい。健全な身体に健全な心を宿らせてくれと。死の恐怖にも平然たる剛毅な精神を与えよと。人生の最後を自然の贈物として受け取る心を・・・願え。今私が諸君にすすめたものは、諸君が自分で自分に与え得るものなのだ・・・」という詩の一節なのだ。その一部をとり自分の都合のよいように説を展開した人がいたのではなかったか。
オリンピック発祥の地ギリシヤで体育が重要視されていたことは確かである。また食養生術「デイアイタまたはデイアイテイケ−」があって、これが現代の「ダイエット」になっている。
紀元前後のこの時期にギリシアで「医術」が生まれた。それまでの宗教とは別に科学的な体系をもった技術としての医術である。東地中海のエ−ゲ海の小島コスにそれを代表する医術の神殿がある。ヒポクラテスがそれを代表する医師であるが、観察を通じて獲得された経験的医術を体系化し記録した。それ以来西洋医学として現代にまで続いている。
「人生は短く、芸術はながし」とよく云われる。これもヒポクラテスの残した言葉の一部であるが、日本では全く別の意味として使われることが多い。原語は「vita brevis, ars longa, occasio praeceps, experientia fallax, judicium difficile」で、緒方富雄訳によれば「生命はみじかい、技術はながい、機会は去りやすい、経験はだまされやすい、判断はむずかしい」である。「ars longa」の意味として「技術は長くつづく」と考えるか、「技術を取得するには時間がかかる」と考えるか、人によってさまざまであるが、本当のことは「ヒポクラテスに聞いてくれ」と書いた。
ヒポクラテスの研究をしていたドイツのゲ−テがファウストを書いたときこの言葉を言わした。それが「人生は短く、芸術は長し」と邦訳されて一人歩きしたようだ。
コス島の博物館にはヒポクラテスの像とならんでヒギエイヤの像がある。ヒギエイヤは衛生の女神であって一般には医の神アスクレピオスの娘として薬の女神パナケヤと並んで位置づけられている。そしてヒギエイヤの名前から「衛生」(ドイツ語ヒギ−ネ、英語ハイジン)になったと云われるが、この衛生の女神は実在はしていない。ギリシヤ人の願いであったのだ。ルネ・デュボス(田多井吉之介訳)によれば「理性の女神であるアテネの化身らしい。健康に結びつけられてはいるが、病人の治療はしない。それよりも、健康の守護神であり、理性に従って生活するかぎり、人間は元気にすごせるという信仰を象徴している。」と云う。そして「病気を受けとめたり健康を取りもどすためには、賢い生活を送るというむずかしい仕事にとりかかるよりも、治療してくれる人を頼りにするほうが、一般にはずっとやさしい。」「アスクレピオスは英知を授けたからではなく、メスの使い方と植物の治療価値についての知識をわがものにしていたために、名声をかちえたわけである。」「ヒギエイヤとアスクレピオスの信仰は、医学の二つのちがった見解の間にある決して絶えることのない迷いを象徴している。ヒギエイヤの信仰者によれば、健康は事物の自然の規律であり、生活を賢明に統御しさえすれば可能になる積極性をもっている。したがって医学のいちばん大切な仕事は、健康な身体に宿る健全な精神を人間に保証する自然法則を発見し、それを教えることである。」と云っている。
私は衛生学の教授としてコス島にあるヒギエイヤの像を見たいと思った。そして一九六六年初めて彼女の像をスナップすることができた。