癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩

 

 「癌(がん)出来(でき)つ 意気(いき)昂然(こうぜん)と 二歩三歩」は東京大学の病理学の教授であった山際勝三郎博士が「成功 成功 ついに成功」と口ずさみ部屋を歩きながら出た句といわれている。

 「兎耳(とじ)みせつ 鼻(はな)高々と市川氏」 助手の市川厚一氏が兎の耳にちょっと傷をつけコ−ルタ−ルを繰り返し繰り返し百日も二百日も中には五百日も塗って世界で初めて「人工ガン」をつることに成功したのである。大正四年のことであった。

 

 ガンは昔からあった。

 十二世紀中国に「癌」の字がみられる。ほかに「岩・嵒・巌」などの文字も用いられた。ごつごつした固い塊を表現している。ガンは多くの場合「硬い塊」として出現する。学問的には腫瘍(しゅよう)と云われる。その腫瘍にたちの悪いもと良いものがある。悪性腫瘍、良性腫瘍という。たちの悪いものはできものができた場所だけでなく「転移」する。そして無制限に細胞が増え周囲に広がって宿主たる人間の死をまねく。

 

 ガンに相当する言葉として、ギリシヤ語で「karkinos」、ドイツ語で「Krebs」、英語で「cancer」があり、いずれも「カニ」が原義である。すでにロ−マ皇帝の侍医ガレヌスがおそらく乳ガンについて「ガンで静脈が浮き上がって四方に広がっているのが、カニが脚を四方に広げたのに似ている」と述べている。またある人は「カニが食いついたら離れないように、ガンは頑固で侵されたら治らない」とも云っている。

 ガンの学問を「オンコロジ−」という。「オンコ」は「できもの」を意味する言葉でそれに「学」としての「ロゴス」がついた言葉である。そしてガンに関する学問を展開してきた。

 

 ガンは何故できるのであろうか。

 その謎ときのはじめてのヒントは燃料に石炭を使用し始めたイギリスで煙突掃除をする人たちにのみみられた陰嚢の皮膚にできたガンを診察したポット(Sir Percival Pott, 1713-1788)が、それが石炭の煤に関係あるのではないかと報告したことに始まると云われている。

 ドイツで病理学が発展する中でウイルヒヨウはガンの成因として細胞は長い期間にわたって外部から刺激が加えられると変化してガン化するという「刺激説」を主張する。その先生のところへ山際先生が留学し、帰国後日本に多かった胃ガンの研究にとりかかり、「ヒトリ環境ノ感化ハ、能クガン細胞ヲ養成ス」と述べている。恩師ウイルヒヨウの学説の影響であろう、山際先生はその説を実証しようと思った。

 人工的にガンをつくることに成功したことは、コ−ルタ−ルの中の何かがガンをおこすのでないかと化学的物質として「発ガン物質」を探求し始める。

 

 現在はガンの原因として「発ガン物質が体の細胞の核酸(DNA)(デオキシリボ核酸)に作用して、潜在している遺伝子を活性化し細胞の増殖が起こることから始まる」と考えられている。その発ガンの引き金がひかれることを(イニシエ−シヨン)といい、発ガン物質を「イニシエ−タ」と育て増やす「プロモ−タ」として考えている。 「イニシエ−タ」とはガン化のきっかけをつくる物質であるが、促進役の「プロモ−タ」が必要なことが多く、その発生の機序として「発ガン多段階説」があり、「がん遺伝子」が関連していると考えられている。遺伝子の構造に変化を引き起こす化学物質もウイルスも放射線もいずれもガンの原因になりうると考えられている。

 「ガン遺伝子」と云われると、「遺伝」か「環境」かなどと病気の成立ちを割り切って理解していた者にとっては、一体どちらが「原因」なのかと分からなくなってしまうと思われるが、今はそれらの相互関係の解明が最先端の学問的な課題であることは間違いない。

 

 顕微鏡が発明されて小さい部屋の「細胞」を見ることができるようになった。さらに細胞の内部構造についての知識がすすむ。細胞の中に「核」があることがわかり、よく染まる「染色体」があり、その数、形、そして一つ一つの染色体に縞があり、性や病気をきめる基本的な「物」がそこにあると考えられ、メンデルが考えた「遺伝」が「物」として認識されるようになる。その物が「デオキシリボ核酸」(DNA)であって、精子と卵子と結びついて出来た新しい一つの「細胞」から人間にまで出来上がっていくのは三十五億年前の生命誕生以来の情報が「設計図」としてその「DNA」に伝わってきたと考えられている。

 十ミクロンの細胞の核一つの中のに長さニメ−トルにもおよぶDNAがあって、それがA(アデニン)T(チミン)G(グアニン)C(シトシン)というアミノ酸が二重らせん構造という組合せで出来上がっており、それがあるから一つの細胞から次々と細胞分裂をくりかえし、次第に手や足ができあがり、手には五本の指ができ、人になっていくのである。その細胞の中に異常がおこって「ガン」になる。

 ガン研究最先端のテレビをみていたら、東大の黒木登志夫先生が面白いたとえ話でこの難しい関係を説明していた。「ばらがさいた ばらがさいた まっかのばらがさいた」のDNAの一部が「ばかがさいた」に変わったりして、「ガン」になるのだと。

 「イニシエ−タ」によってDNAに「傷がつけられ」て「ガン」の第一歩が踏み出される。その部の「修復」もされることもあり、いくつかの段階をへてガンになる。正常といわれる細胞と形も働きも違った「細胞」ができ、その数が次第に何万個にもなって「ガン」になるのだと。

 

 医師によって「ガン」の恐れがると診断されるときは、すでに数十万とか数百万かの細胞の塊になってからである。これが現代医学の限界である。早く診断してもらって「ガン」を見つけるのは「早期診断」で、現代医学は早い段階でガンを見つければ殆ど治してくれるものだと思って間違いはない。しかしガンは医師が診断できるその前にしずかに進行しているという事実も知っておかなくてはならない。だからこそガンにならない方策がないものか「予防医学」はその秘けつを探し求めているのである。

 

 現代につづく世界のガン研究のその手始めの実験的研究が日本で行われたのである。東京大学の病理学教室の前には山際先生が亡くなったとき先生の病理解剖が行われた解剖台と「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」のはめ板があり、標本室には記念すべき「人工ガンの兎耳」がかざられている。

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