マ−ジャンで 親のぼけ度を 診断し
長寿、長寿といって、何もおめでたいことではない、といった学者がいた。杉田玄白である。
日本にオランダ医学が入ってきたとき、西洋の解剖の本を訳して「解体新書」を書いた人の一人であるが、亡くなる一年前の八十四歳のとき「耄耋獨語」(おいぼれの独り言)を書いている。
「世の人々がみだりに長寿を得ようとして心を労することは無益で」「年をとるにつれて身体全体が次第に弱って行くもので、老いの身のつらさはめでたいといって祝ってくれるものではないのだ」と云っている。
古来中国では人の一生を区分する言葉があって「小・少・丁・壮・老・耄・耋」という。歴年で小は七歳まで、少は十五歳まで、丁度二十歳ぐらいになると一人前の丁年になったといわれる。だから昔の「壮丁検査」いまの「成人の日」はそれなりの年齢層を示している。老とは五十歳ぐらいで、次いで六十歳で耄(ぼう・もう)となり、七十歳で耋(てつ)となる。「初老」「もうろく」などそれなりに意味がある。
杉田玄白は「老い」を迎えた自分を見つめて書いている。
自分の大小便の排泄口(本文では、上の七竅についで下の二竅とある。竅(キョウ)とはアナのこと)のありさまを書き、老のつらき事数限りもなし、手・足・腰の不自由になった様子を訴え、精神上の悩み、主としてもの忘れの甚だしいこと、老いの身の寂しさを語り、このように老いてはつらきものなるに人々がこれを望み願うのは間違っているとして、このものを書いたのだと記して文は終っている。
さすが西洋の医学思想にふれ、現実を見つめた杉田玄白の「ひとりごと」は他人事ではない。
でも人は生まれた以上死を迎えるのだ。
めでたいことは「人が生まれた順番に死ぬことだ」といった人がいた。日本のとくに東北地方では「その順番」が違うことが問題なのだと。生まれたばかりの子供が沢山死に、結核で若い人が死に、戦争で働きざかりの人が沢山死んだのだ。
われわれも東北地方の働きざかりの方が「ぼんとあたって」脳卒中で死んでいたことを、なんとか「予防」できないかと研究を始めた。おかげさまといおうかこの東北でも以前と違って働き盛りで脳卒中で亡くなる人は随分少なくなった。その代わり皆が長生きになって今度は「長寿」「長寿」と言い出した。
秦の始皇帝は不老不死の薬を世界に求め、現代科学は人がいつまでも死なない仕組みを求めていくのだろうけれど、しかし人はいずれは死を迎えると思う。いまはその仕組みが分からないからいずれ人は死を迎えると云う。だから「健やかに老いる」ことが現代のテ−マとなった。
その中で一番恐いものは何であろうか。一番は「ガン」のようである。だが「早期発見」「早期治療」で殆どガンでは死ななくてよいようになった。ガンの成立ちが分かってきた現代では「ガンにならないために」「自分の日常生活で何をするか」である。一番は「タバコのない世界をつくること」である。自分でやれることもやらず、現代医療の恩恵も受けずに、手おくれになった方は安らかに死を迎えるようにすることだけである。でも「末期ガンの痛み」は「麻酔」で救ってくれるようになった。
高血圧・心臓病・脳卒中いずれも自分の普段の行いが関係する。いっそのこと「ぼん」といっきにいってくれればよいという。他人の世話にならないうちに。だから「ぽっくり寺」がはやる。いまだに「神だのみ」である。
やっかいなのは「脳梗塞」、昔「脳軟化」といっていた脳卒中である。
ほんの気のつかないような一過性の発作が先にあり、本格的な症状が出てから死を迎えるまでに半身不随、寝たきりの状態が数年はつづく。日本ではあと数十年はこのような老人を沢山抱えることになる。これはいままでの「悪い生活のつけ」である。
おまけに「脳血管性の痴呆」が問題である。「痴呆」には「アルツハイマ−痴呆」というのがあるが、その成立ちはまだ不明であり、わが国では「脳血管性の痴呆」が多い。
「痴呆」になるとまず「記憶力の障害」「見当識の障害」(日時・場所・人物などについての)「知識の低下」「計算力の低下」「理解力の低下」および「判断力の低下」に始まる。さらに「人格の変化」「問題行動と妄想」になると本物である。ついには「日常生活動作の低下」につながる。
だが「痴呆」の成立ちや仕組みはまだ分かっていない。その診断をする段階、その世話をする段階で、まだどのよにしたら「予防」できるかは分かっていない。だが日本で脳血管性の痴呆が多いということは「循環器疾患予防」で分かってきたことを若い時から実践することで「健やかに老いる」ことが出来ると思う。まだ「疫学的に証明」はされてはいないけれど。
両親とも九十四歳で送ったのだけれど、父が亡くなる前年、母(八十九)と兄(六十四)と私(五十七)とで合計三百三歳のマ−ジャンの卓をかこんだことがあった。それが最後の記録であった。その時私は「父、母の(恍惚度)を判定する」と書いたけれど、それから十五年、今度は子供たちから私の「ぼけ度」が観察されている。
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