最近の医学の進歩は臨床医学と基礎医学に負うことが多いことは、周知のことであろう。
今まで手の付けられなかった脳の手術も可能になったし、また癌と診断されてもそれは死に直結することではなくなった。
しかしその進歩の中で「疫学」のはたしてきた役割、その成果についてはあまり知られてはいない。
それは何かというと、疫学によって病気の「自然史」(natural history)が明らかにされてきたことに集約される。
今までの医学は、「病気」を出発点としてきた。
人々が肉体的精神的悩みを持ったとき、医学はその悩みを救う科学的な技術として発達してきた。人を診るのではなく、その人の病気に研究の興味が注がれてきたことは、なにも今に始まったことではなく、医学が体系化されはじめた数千年前から言われていたことではあるが。
人々が病気になったことは、すでに「結果」であることであるが、医師はその病気に対処しなければならず、それが社会的需要と考えられ、それに応えることによって大部分の医師は生計を立てている。
また多くの医師は、すでに出来上がった結果としての病気の中から、病気の成り立ちを知ろうとし、その中で得られた知識から最善の方法を考え、最善の設備をし、最善の治療をしようとする。世の人々は自分のことになると最善のものを求めようとし、医師はそれに応えようとしている。そして素人の方々、あるいは多くの医師でも、それだけが医学であり、医療であって、それがより進むことを期待している。
ところがすでにでき上がった病気の処置だけに追われるだけでよいのであろうか。勿論多くの病気が現にあり、多くの人々が悩み苦しんでいる状態を放置して良いといっているのではない。
人々はなぜ病気になるのであろうか。医学はその謎をとくために努力してきた。いや実際は、色々の疑問を解くことに興味をおぼえた医学研究者の研究の成果がつみ重ねられてきた結果であろう。それが現在までの進歩の姿である。
ここからが、疫学者として言いたいことになるのであるが、今こそ発想を転換すべき時ではないかと思うのである。
それは何かというと、從来の臨床医学的発想によるのではなく、疫学的考察によること、あるいは疫学の論理に立たなければならないということである。
臨床はその字の示すように、人が病床にあることであり、医療はその人の為に最善をつくすことである。
しかしすでにでき上った病気が、どのようにしてここまできたのかは、病気を出発点としてはわかるはずはないと思う。
多くの病気は人々の生活にかかわりがあることが考えられるから、生活までたちいたって考えねばならず、その生活が良い方向に変わらなければ、病気はあとを断たない。
具体的な例を示せば、東北地方に若く多発していた脳卒中を如何に診断し、治療するか、リハビリテ−ションしていくかはここ三十年間に極めて進歩した。
しかし人々の普段の生活の中にこそ脳卒中の予防の手がかりがあるのだということを明らかにしたことは、疫学研究の成果を抜きにしては考えられない。 疫学研究は脳卒中の患者にのみ接することではなく、一般に生活している人々に接近し、生活をみ、血圧などを測定し、その後その人々がどのような経過をたどるかをみることによって科学的に考察されてきた成果であったといえる。食塩過剰摂取の害の指摘などその一つであるが、それが保健活動のなかで展開された結果、ここ二十年間に日本の、とくに東北地方における脳卒中の若い死亡は少なくなってきている。
アメリカで心臓病の死亡率が最近急速に低下してきたのは、疫学の成果によって明らかにされた生活上の危険(risk)因子についての認識が一般化したことによると考えられる。
肺がんの患者を如何に診断し、治療し、それは勿論進歩したのだが、今世界をあげてたばこ問題にとりくむようになったのは、たばこをのむ人ものまない人も、普段健康だと思っている人を長年追跡して、たばこが単に肺がんだけでなく、かなりのがんに関係があり、だいたいアメリカ人の癌の三十パ−セントはたばこによると考えられているが、心筋梗塞のような循環器の疾患の発生にも関連ある危険因子ということが明らかにされたからである。これも疫学研究による成果であった。
かってコレラ菌が発見される三十年も前に、コレラが悪い空気による病気ではなく悪い水による病気であることを推論し、対策をたてることができたのも、ロンドンでのジョン・スノ−による疫学研究による成果であり、脚気が食生活にかかわりのある病気であり、食生活をかえることのよって脚気を予防でき、また後にビタミンの発見のきっかけになったのも、日本における今でいう疫学の成果であった。
病気の自然の成り立ちがわかれば、その病気の予防に何をしたらよいかは、誰にでも理解できることである。
その病気の自然の成り立ちはすでにできあがった病気を出発する從来の臨床医学ではわからないと思う。まず疫学研究に力をそそがなくてはならない。そのためにお金を注ぎこまなくてはならない。いったん見当がついたら、その成果を実際にいかせるように、お金を注ぎ込み、人々がその理にあった行動をするように手助けをしなければならない。そうするとその病気になやむ人は自然になくなるのである。WHOによる天然痘対策によってその病気になやむ人はこの地球上からなくなったのである。
現在たばこを如何に多くの人にすってもらうように広告宣伝するためにお金が使われていると思うが、たばこの害を皆に知らせるためにお金を用いるべきではないかと思う。たばこをまだ知らない子供たちの保健教育のために、もっとお金を注ぎ込むべきであると思う。将来の日本人の健康のために。
現在の数々の病気のうちその自然史の分からないものには、まず疫学研究で立ち向かうべきであり、ある程度成果のあるものにはその成果の社会的適応をはかるべきである。
成人病対策によって昔なら若く死んでいったであろう人々が長生きするようになかったことはよかったことだと思いつつ、多くの病気をかかえて長生きするようになった人々の為に多くの医療費をつかわなければならなくなったこの世の中からぬけだすために、現在は医学の発想を転換するには最も適した時代であると思う。
わかりやすくいえば、治療医学から予防医学への発想の転換であり、疫学による成果が一般に生かされるようにもっと力をそそぐべきである。(昭63.5.10.)