長寿県・短命県の解釈をめぐって

 

 厚生省から平均寿命や訂正死亡率が発表されると、いつももっともらしい解説がされる。

 ジャ―ナリズムがそれを要求するからだと思うのだが、統計の数字の解釈は難しい。

 統計の資料がどのようにして集められたのか、またどのようにして計算されたのかほとんど知らなくて、新聞などにのった表題を自己流に解釈し、文学的に意見をのべている人が多いのには驚かされる。それも一流といわれる人がである。

 沖縄は長寿日本一とか、青森県は短命県でワ―スト・ワンとかいわれる。たしかに計算された結果をならべればそのようになることもあるが、その数の意味するところはなんであろうか。

 その理由はこれこれですかとか、新聞記者にいちいちおっかけられる。その計算の結果の理由が分かれば世話はない。

 長寿とはなんと響きのよい言葉であろうか。ある人は平均寿命をもって長寿を論じている。またある人は長寿者率を使って論じている。

 またある人は百歳以上の長寿者を調査して長寿を論じている。比較対照する人のことを調べなくて長寿の理由が分かるのであろうか。

 人が生まれてどの様に死んでいったのか、何故若く死んで行くのか。そんな人のことを調べなくてよいのか。

 脳卒中の場合何故若く発作がおこり、死亡していったのか、それを調べなければならない。そのおこり方、死に方に地域差があることが問題ではないか。生き残った人のことより。

 そして人が若く死亡していることは生活とくに食生活にかかわりがあり、若く死亡しないための予防の手がかりがあると三十年前に論じ、その理由を求めて研究してきた。

 もともと長寿県とか短命県とかいわれるようになったのはいつ頃からなのか。それは四十年も前に、近藤正二先生が日本全国を足で歩かれて、それも町村合併以前の小さい村を単位に、七十歳以上の人がその村の人口の何パ―セント生きているかを調べて長寿者率といい、長命村、短命村についての報告をおこなったことによると思われる。だから日本各地には、わざわざ短命の村という村はないが、長命の村という村があり、記念の碑のあるところもある。またそのとき報告された内容を今もって引用される方がある。

 この時の報告は貴重なものであったと思うのだが、研究の手がかりが与えられただけで、結論がでたわけではない。その手がかりをもとに何をしていったかを見なければならない。研究がどのように進んだかを知らなければならない。その結果がどうであったかと。

 近藤先生がやられたことは、現代的表現によれば疫学的研究のうちの記述疫学の成果であって、それを出ていない。計画的な追跡的疫学研究や介入研究によって追求されていかなければならず、またでた結果が臨床的にも、実験的にも理論上納得されなければならない。

 だから厚生省から記述疫学上のある結果、この場合平均寿命とか訂正死亡率とかの結果がでたとといってもその解釈はそう簡単ではないのだ。

 平均寿命も訂正死亡率も、また最近コンピュ―タ―の発達によって可能になった全国市町村の標準化死亡比も、それから図示されるようになった健康マップも、言葉としての響きはとてもよいのだが、その数を一歩もでることはできない。

 もとをただせば基礎になる資料は人口と死亡診断書とであって、どういう病名を医師が書くか、それをどのように集計するのかによるところがあるし、なににもまして問題になるところは、今生まれた人も、百年前に生まれた人も一緒に計算されていることにあると思われる。

 その欠点をおぎなうために、同一出生年次群の推移をみるコホ―ト分析が必要なことをのべてから三十年たったが、ようやくその成績が報告されるようになった。

 死亡の傾向をみると若く出生する年代ほど死亡率は低下しており、男では脳卒中・胃癌は低下、肺癌は上昇、女では脳卒中・胃癌・子宮癌は低下、乳癌そしてわずかながら肺癌も上昇している。

 もう一つ考えなければならないことは、人は生まれた以上いつかは死亡するという事実である。

 イギリスで初めて生命表が計算されたとき、今生まれた人も百年後にはほとんど死にたえるという計算の結果を知って、時の首相がいたく感激したというエピソ―ドが伝えられているが、生まれた人が若く早く死亡することが問題であると考える立場があるわけで、その立場を取ると、人の命をどのように考えるかの大問題にぶつかるのである。

 乳児死亡率がとても高くて、死児をして叫ばしめたのが丸山博先生だが、われわれが日本の東北地方の脳卒中の公衆衛生上の問題を指摘したのは、三十歳から五十九歳の働き盛りの人達の死亡があまりにも他の地方と比較して多かったからであった。

 若く失われる命の量を考えるライフ・ロス―トという計算があるが、その数値も持つ意味はいわゆる死亡率とは違う。最近日本のまた東北地方の死亡もライフ・ロ―ストで好転していることがうかがわれることを報告した。 しかし東北地方で展開した脳卒中・高血圧対策の効果がでてくるのには三十年はかかるものと思われ、四五十歳以上のいわば手おくれの人が死にたえないかぎり問題はのこるものと思われる。

 そしてまたその時になった頃は今とは別の健康問題に追い回されることになるだろう。いわゆる長寿県・短命県の解釈は容易ではない。(昭和63.3.27.)

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