それは私が弘前大学医学部衛生学の教授になって間もない昭和32年であった。
医学部の衛生学の教育では、教室での講義実習のほかに、学生の自由研究をやっていた。
学生はそれぞれ当時の健康問題として重要と思われた研究テ−マを選んでいたが、その中の一グル−プが東奧日報紙に投書した。
「教室だけの勉強から実際面に飛び出すのですから、大きな期待と情熱を感じています。県民の皆様、もし私達に公衆衛生の面で調査研究してもらいたいことがありましたら照会ください」と。
これを見たのが常盤村の農協青年部であった。そして村の井戸水の調査をしてもらおうということになった。
昭和30年のはじめの頃はようやく皆が健康問題に目を向け始めた時代であった。毎日飲んでいる水が悪いために赤痢が多いのではないか。子供たちはよく下痢をするが水が悪いためではないか。見た目ではきれいな水でも、便所や下水の汚水が井戸に入っているのではないか。さあ清潔だ健康だ。良い水は健康のもと。そろそろ村でも水道が必要ではないか。こんなことが青森県内いたるところでいわれるようになった時代であった。
学生は常磐村に行き、農協青年部の人達と相談した。村でも調査費用の一部として2万円をはずんだという。
昭和32年7月13日から現地調査、各家から集められたビ−ル瓶に入った水の分析が明徳中学校の教室で行われた。
7月16日付けの東奧日報にその記事がでた。
見出しは「悪い常盤村の飲料水」であった。
常盤村の水だけが悪いのではない。県内のほとんどの水は調べればどれもが悪い結果が出る時代だったのである。常磐村で調査したから具体的な事実としてわかっただけの話である。
調査結果は村の人達を前にして語られ、説明された。
ござの上にすわって、スト−ブを囲んで、毛皮をしょった村の人達が熱心に説明を聞いている写真がある。
これがきっかけになって村は水道をひくようになったと聞いた。
今の村の様子は昔の面影がないくらいに良くなった。
この調査に参加した学生は今は立派な医師になり、秋田や新潟で開業している者もおり、弘前大や山形大で教授になった者もいる。
時代が変わり、健康問題も変わり、病院も変わった。
ときわ会病院が時代の要請に応えて活躍して、10年になったそうだ。
理事長の永山隆造君、奥さんの旧姓佐藤浩子さん、院長の佐藤勗君は、常磐村の井戸水調査をやった連中の2年後輩である。そして学生時代の永山君の自由研究のテ−マは岩手県における保健活動であった。