思い浮かぶこと

 

 いつだったか大分前のことになるのだが、品川信良教授らと、看護大学のような構想を話しあったことがあった。

 品川教授が助産婦学校の校長先生であったこともあり、私は当時看護学校や助産婦学校は教えてはいなかったが、青森県立高等看護学院公衆衛生看護学部で保健婦や養護教諭になる学生の教育をやっておった時であった。

 彼女らは実際にはかなり高い教育を受けていながら、教育制度上からいうと各種学校卒というランクにいっぱひとからげにいれられているということをどう考えたらよいか。もっとちゃんとした教育制度による学校が必要ではないか。短大という手もあるかもしれないが、いっそのこと当時日本にはまだなかった大学を国立にも作ったらどうか。そんなことを考えたことがあった。

 また私がどんなひょうしかわからないが厚生省の医療関係者審議会専門委員に任命され、保健婦助産婦看護部会に指命されていたこともあった。とても大事な委員会でありながら、私の任期中にはこの委員会は結局のところ一回も開かれずに終わってしまった。その時わかったことは、日本には、厚生省には、医師以外の医療関係者の教育について真剣に考えている人がいないのではないか、ということであった。一体それは誰がやるのであろうか。医師は医師のことで手が一杯で、医療全体をみる人がいないのではないか、ということを感じたのであった。

 そんなことで弘前大学にも看護とか保健とかの大学をつくったらどうか模索したことがあった。千葉大学にはそれらしきものができたが、弘前にはできなかった。大学への準備をしたりしたので、短大発足が一年遅れたと考えることもできるのだが。

 歴史的に医学部ができるときのことをみるといろいろある。始めは建学の精神があってそれにふさわしい人をいわばかき集めることが多いようだ。しかし一旦できあがってしまうと、あとはかなり強直になってしまう。一代目は創設期は比較的自由であり、二代目三代目は自由さがなくなる。

 弘前大学に医療技術短期大学部が誕生したときは、医学部関係の人事にならざるをえなかった。それは出来る前から将来に教授や助教授になってもらう人をきめて、本人の承諾の印鑑をもらって申請するのであるから、当の本人にとっては将来どうなるかわからないものに自分をかけるのだから一大決心が必要だったろう。また品川先生らの努力のかいあって、助産学の特別専攻科が認められることになったが、専門領域なるが故に人を得る事は大変であったと思われる。

 一旦短大ができるときまると、その人事の認定は大変であったという。その教官の履歴、業績をみたうえでの資格認定はきびしかったようである。短大なるが故にきびしかったのか。しかしそんなことで人は得られて、出発した。あとはその方々がどんな活躍を示すのかを期待するのみであった。

 そして私に専攻科の中で保健教育を講義するよういわれたのあった。

弘前大学医療技術短期大学部30周年記念誌,23−24,昭63.12.26.)

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