前回「評論家の功罪」で功も多いが罪もあるのではないかと書いたのだが、今日は評論家のように「疫学者」の立場を述べてみたい。
日本疫学会が誕生してこの1月には第3回の学会が開催されることになった。学会発足当初から名誉会員に推薦されてしまった。
過去三十数年自ら「疫学者」と称し、「疫学的研究」を展開してきた者にとっては有難いことではあるが、疫学者の立場をどのように自己診断しているかを記しておく。
医学教育をうけ長らく衛生学の教授を勤めてきたが、人々の病という悩みに現実に対処する「医」の行為もできずじまいになってしまった。
しかし「近代的疫学」と云われる科学的接近法にふれ、また自ら研究を展開して分かったことは人々の悩む病にはその前があり、いくつかの病についてはその病の成立ちという「自然史」が判明してきたことであった。
「インフォ−ムドという言葉」にも書いたように、それでは「医」は人々に対して何をなすべきかということになる。
科学の進歩によって病の成立ちにDNAという体内要因が関係していることも納得されるが、「多要因疾病発生論」にもとずく「近代的疫学」によって人々の生活の中にも気が付いていない「穴」があることが「確率」ではあるが傍証され見えてくるのである。
そうなると自分では健康だと思っている人々にそのことを教え、「穴」をさけるように行動することを支援することが必要であると考えざるを得ない。
かってギリシャ時代にあった衛生の女神と云われる「ハイジェイヤ」の信仰、すなわち「理性に従って生活するかぎり人間は元気にすごせるという信仰」(ルネ・ヂュボス)というその理性とは何か、その原理を求めることが「衛生学」であり、「疫学」はより実際的な立場である。
私が関係した循環器疾患についても「すでにその病気に悩んでいる人を治すことだけでは本質的に救われない、予防を可能にするために発生要因の探求に取り組まなければならない」と「疫学と予防の会」が1966年に発足している。また世界心臓学会とは別に「予防心臓学会」も第3回を迎えることになった。
また「健康教育」の重視、「ヘルス・プロモ−ション」からさらに「健康投資」が国際的に考えられる時代になったと思う。
「思う」とは評論家的な意見であるが、その基礎に実際に研究を展開し成果を得たと思う者としての考えでもある。