4 ヒポクラテス医学と食塩

 

 地中海の東にあるエ−ゲ海は多島海といわれるように島々のある海であるが、紀元前1万年ごろにも石器があり、最初の農耕民が到着したのはおそらく紀元前7000年ごろといわれている1)。

 世界最古の文学といわれるホメロス(Homeros,前9世紀末)の「イ−リアス」に述べられている物語がヒントになっての発掘によって、これらの島々にエ−ゲ文化があったことが判明したといわれている。

 ギリシヤの文化はエ−ゲ文化をもとにオリエント文化の影響をうけながら成立していったと考えられるが、ホメロスによる「オデユツセイア−」2,3)「イ−リアス」4−6)の民族的叙事詩に、また歴史の父といわれるヘロドトス(Herodotos, 484-430 B.C.)のオリエント諸国をめぐってその見聞を書いた「歴史(HISTORIAE)」7−9)に,その当時の人々の生活の様子や多くの神々や神話が生まれたことをうかがうことができる。

 人々と食塩との関わりについてこれらの文献には次のような記述がみらる。 

 「またその者らは、塩を加えて味をつけた食物をいまだに知らず」((2)第11書123,(3)第23書270)、「聖い塩を、肉にふりかけ」((5)第9書214)、「塩干魚工場」((7)巻2,15)、「魚は天日に乾かし、塩漬けにして生のまま食べる」((7)巻2,77)、「井戸を用いて塩分の多い水を飲用に宛てねばならなかった。」((7)巻2,108)、「また河口のあたりでは多量の塩が自然に結晶しており、」((8)巻4,53)、「小丘の上に大塊を成した塩が堆積している。そしてそれらの丘の頂上では、必ず塩の中から冷たく美味な水が吹き出し、」((8)巻4,181)、「塩の上に土を運んで種を蒔いている。」((8)巻4,183)、「この地帯には・・塩の山があり、そこに人が住んでいるのである。これらの住民の家屋はすべて塩の塊で建ててある。・・・もし雨が降れば塩の壁は一たまりもないはずである。この地帯で堀り出される塩は、その色が白または赤である。」((8)巻4,185)、「お前のような濁った塩辛い流れには当然のことだ。」((9)巻7,35)、「塩魚を焼いているとき、・・火にかけられた塩魚が、さながらとりたての魚のように跳ねてピクピク動いたのである。」「すでにこの世のものでなく塩漬にされた身でありながら、」((9)巻9,120)

 

 今から1世紀ほど前に細胞の発見者の一人として有名なドイツの植物学者シュライデン(Schleiden,M.J.)は1874年に「塩」(Das Salz)を出版するが、この中に、ホメロスによる「オデユツセイア−」にでてくる「塩を加えて味をつけた食物を未だ知らず」を引用し10)、最近の文献の中でも食塩と健康の歴史的記述のなかで上述の記録を引用し11)、また「聖い塩」を(divine)という英語で引用している12−13)。

 

 ギリシヤ神話のなかに海の神ポセイドンが三又の鉾でアクロポリスの丘の岩を突いて塩水が噴き出した話が語られている。14)

 医の神アスクレピオスはアポロンの息子として生を受け、奇跡のように病を治すので評判になり、ギリシヤ全土で大いに崇拝され、島々に神殿が建てられた。彼の信仰は宗教であると同時に体系的な治療法でもあった14)。

 その島の一つコス島15)に紀元前640年にヒポクラテスが生まれ、いわゆるアスクレピアデスとよばれた医師の団体に属していた。ソクラテス以前のギリシヤ科学の記録のほとんどが壊滅したなかに、初期の科学の一部門だけが例外で、医学者たちの著作集が今日のわれわれにのこされている。それが「ヒポクラテス医学」16,17)として現在までの医学の中に引き継がれることになり、ヒポクラテスは「医学の父」といわれることになった。

 

 「予はここに医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイヤ、パナカイヤその他諸々の男神女神の御前に於て本宣誓の実行に予の全力を捧げん事を誓い奉る。」で始まる宣誓16)には現在に続く医の倫理が述べられている。

 「生命は短く、術は永遠である。正しき機会は刻々に移り、試みには惑ひ多く、判断は難い。凡そ医師は単に必要なる学習だけで事足りるものではない。其目的の達成には、病人そのものと、その環境と並びに外界とに考慮を拂ふの要がある。」で始まる箴言(しんげん:いましめとなる短い格言)16)は、その意味の解釈は困難な点もあるが18)、422項目の中に「塩」についてはほとんど述べられいない。強いて関連のあるものをあげるとすれば「渇して夜中に水を欲したる人が渇を癒した後によく睡眠すれば可い。」(5:27)である。

 「古代医学」16)の中心は四元素・四液説によっているが、「実に人体内には苦いもの、鹹いもの、甘いもの、酸いもの、渋いもの、無味のものその他幾多のものが混雑して働いてゐる。」「吾々の健康に害あるもので之を食して疾患を起こすものを挙ぐれば、或は苦味にして混ざりなく、或は鹹く、或は酸く、或は不調和にして其れ自身強性に作用するものがある。」(4:14)と述べられている。

 「正しい仕方で医学にたずさわろうと欲する人は、次のようにしなければならない」で始まる「空気、水、場所について」17)では「また水についてそれがどんな状態にあり、人々は沼地の軟性のものを使っているのか、それとも硬性で高地の岩山から来るものを使っているのか、それとも塩辛くて粗い水を使っているのかを考慮しなければならない。」(第1節)「次に有害なのは、その源泉が岩場から出ているものである。これは必然に硬質だからである。また熱い水や鉄、銅、銀、金、硫黄、明礬、瀝青、曹達を含む土から湧く水。なぜなら、これらはすべて熱の力によって生じるのだから。このような土から湧く水は良水では有り得ず、硬質で、催熱的で、尿となって排泄されにくく、排便には妨げとなる。」「塩辛く、粗く、硬い水は、すべて飲用に不適である。ただし、このような水を飲料にすると健康に有益な体質と病気がいくつかあり、今これについて述べようと思う。」「内臓が軟らかで水分があり粘液の多い人は、もっと硬くもっと粗く、塩辛い水が効く、これを飲めばもっともよく乾くわけだから。」「人々はその無経験のために、塩辛い水について誤った考えをいだき、それが下痢を促すものだと思っているけれども、この水は下痢をもっとも防げるものなのである。なぜならば、粗くて煮沸しにくいのであって、したがって腸もまたこの水によって緩められるどころか、かえって収縮されるのである。」(第7節)「雨水と融けた水がどのようなものかを述べよう。雨水の方は、もっと軽く、もっと甘く、もっと希薄で、もっと明澄である。そのわけは、まず太陽が水中のもっと希薄で軽い部分を上昇させて奪い取るからである。塩(の製造)がこのことを明らかにする。すなわち塩水は濃厚で重いから残されて塩になり、もっと希薄な水は軽いから太陽はこれを奪って行く。太陽はこのような水を沼の水からだけでなく、海からも、その他およそ水分のあるあらゆるところから上昇させる。水分はあらゆる物体の中にある。そして人間の身体からさえも、そっと希薄な、またもっと軽い水分を運んでいく。」(第8節)

 このように環境要因としての水について、またその中の塩について注意を述べているが、「塩」としては「埃及(エジプト)塩」という記述が見られる((16)48:75,78)ところからみると、すでに当時地中海貿易品の中に「埃及塩」があり、それが用いられていたことがうかがわれる。

 「食物」16)55項目、「食餌」16)86項目のなかで「塩辛いものについて正しき認識を有しておらない」(17:第2章3)と述べ、「鹹いものを避ける」(17:第1章35)、塩魚(17:第2章12)、塩肉(17:第2章20)の記載があるが、それぞれ使い分けをしている。

 「婦人の自然性」16)の中で、乳の出が悪くなったとき「塩辛いものを節し」(47:93)と述べている。 病人についての塩の用い方については「疾患」「内科疾患」「婦人病」などの記述の中で、「塩を加える」(30:41,32:12,35,42,44,,48:52,75,78)、「塩を加えない」(32:1,3,22,30,40,42,)の使いわけが記載されている。

 また医薬的な使用方法としては、婦人病の場合の挿入薬(47:42,72,48:32,78,81)、清掃薬(48:84)、洗浄薬(48:109)、罨法(48:98)の場合が述べられている。

 以上のように「ヒポクラテス医学」においては、「塩」はその源が「水」あるいは輸入塩にあり、それぞれ食餌また病人の病状にあわせてその使用法が述べられ、その場合の理論が展開されている。

 

 ヒポクラテス医学について「ギリシヤ人の科学」19)の中で次のように述べられれている。

 「ギリシヤ医学の起源を尋ねて、普通に歴史者は、つぎの三つの源泉をあげる、−すなわち、第一には医神アスクレピオスの古い神殿でほどこされていた医療、つぎは自然学者たちの生理学的見解、そして第三は体育訓練所の指導者たちの施療である。」

 「技術は−−経験によって学ばれ、また人間と事物の自然的本性に理論を適用することによって学ばれる。」「このウィシントンの意見にわたしは完全に同意する。ただ一つこれに附け加えたいことは、もし医学の源泉として、ここにわれわれの除外した神殿の祭司たちに代わるものを、もう一つあげる必要があるとすれば、祭司たちの代わりに料理人をあげたい、ということである。」

 「ともあれこの料理人が源泉だというのは、わたしの意見ではなくてギリシヤ科学者のうちの最大な者の一人の意見である。」

 「実のところ、人間は全くの必要にせまられて医術を求め医術を発見するに至ったのである。というのは、健康な人のと同じ食餌は病人にはよくなかったし、またよくないからである。これをさらにさかのぼって考えてみると、もし人間が、牛や馬やそのほか人間以外の動物の満足しているのと同じ飲食物で、というのは、果実や葉や雑草など地上に生じるなまの産物で、それで満足していたとすれば、今日健康な人間が楽しみ味わっているような生活の仕方や栄養のとり方は発見されなかったであろうと思う。現に家畜は、あのような地上のなまの産物を食って、それで育って、そのほかになんの餌食をも必要としないで、なんの苦もなく生きているのだから。たしかに初めには、人間も、牛や馬と同じ食物をとっていたものだろうとわたしは信じる。だから、思うに、今日のわれわれ人間の生活の仕方は、長い時のあいだに発見され仕上げられたものであろう。」

 「昔の人々は、自分たちの体質と調和した栄養物を探し求めて今日われわれのとっているものを発見してきたものと思われる。」

 「ついにかれらは、それぞれの食料を人間の力や体質に合うような食物にした。それはかれらが、人間の体質には強すぎて消化しえないような食物からは痛みや病気や死が結果するが、消化しうるような食物からは栄養と発育と健康とが結果すると知ったからである。では、この発見と研究をなんと呼ぶべきであろうか? 医術と呼ぶより以上に正当で滴切な呼び名はないであろう。なぜなら、医術は、痛みと病気と死とを結果するような生活の仕方の代りに、人間の健康と幸福と栄養とを目ざして発見された術であるから。」

 「ことに注目すべきは、このすばらしい科学的労作の著者が好んで自分自らを働き手、職人、技術者と呼んでいることである。かれがかれ自らの技術を「古い」医術と言っているのも、かれらが自分自らの起こりを料理人だとみていたからである。」

 

 このように「観察・記録・考察」の自然科学的学問の始めとして人間の健康をながめ、「自然治癒力」を考え、人々のおかれている生活環境・生活のし方を考え、その人々の、とくに病人の食餌を考えた「ヒポクラテス医学」の中では、「塩」については「是々非々」の考えがあったことが窺われる。

文献

1)シンクレア・フッド(村田数之亮訳):ギリシヤ以前のエ−ゲ世界.   世界古代史双書2,創元社,大阪,1970.

2)ホメ−ロス(呉茂一訳):オデユツセイア−(上).岩波文庫,1971.

3)ホメ−ロス(呉茂一訳):オデユツセイア−(下).岩波文庫,1972.

4)ホメ−ロス(呉茂一訳):イ−リアス(上).岩波文庫,1953.

5)ホメ−ロス(呉茂一訳):イ−リアス(中).岩波文庫,1956.

6)ホメ−ロス(呉茂一訳):イ−リアス(下).岩波文庫,1958.

7)ヘロドトス(松平千秋訳):歴史(上).岩波文庫,1971.

8)ヘロドトス(松平千秋訳):歴史(中).岩波文庫,1972.

9)ヘロドトス(松平千秋訳):歴史(下).岩波文庫,1972.

10)Schleiden,M.J.:Das Salz. Leipzig, 1875.

11)Meneely,G.R.:Editorial. Am. J. Med., 16, 1-3, 1954.

12)Kaunitz,H.:Causes and consequences of salt consumption.  Nature, 4543, 1141-1144, 1956.

13)Hollenberg,N.K.:Set point for sodium homeostasis:Surfeit,  deficit, and their implications. Kidney International, 17, 423- 429, 1980.

14)ギラン・F.(中島健訳):ギリシヤ神話.p.74, 青土社.東京,1982.

15)佐々木直亮:コス島への旅.公衆衛生.32, 225-227, 1968.

16)今裕訳編:ヒポクラテス全集.岩波書店,東京,1931.

17)ヒポクラテス(小川政恭訳):古い医術について.岩波文庫,1963.

18)佐々木直亮:ヒポクラテスに聞いてくれ.日本医事新報.3196, 109,  1985.

19)ファリントン・B.(出 隆訳):ギリシヤ人の科学.p.92, 岩波新書,1955.

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