5 塩の世界史と民俗学

 

 この地球上で塩のとれる源として5億年以上前に形成されたといわれる地下の岩塩堆積層が人々の目にふれるようになったのは比較的近代のことで、当然のことながら人々が塩や鹹(から)い水をみつけたのは海、乾燥地域の表面被覆層や塩湖にみられた塩であり、鹹い塩水泉であったと考えられる。また人々の知恵によってそれらから塩をつくるという製塩法も世界各地で色々と工夫されてきた。    

 

 その塩を人々の生活、とくに食生活に用いるようになった理由は何であったのであろうか。

 塩のもつ味が人々をとらえたのであろうか。

 原始的な医療の中で塩が用いられたこともあったであろう。

 ミイラ作成にみられた経験がまた食物保存にも塩が役立ったことを知ったことによったのであろうか。

 また塩について極めて宗教的な意味をもたせたことによったのであろうか。

 そのいずれもが塩を食生活に用いられるようになったきっかけとして考えられ、またそのような事例があることが知られている。

 動物が塩を求めて「けもの道」をつくったように、人間も農耕生活をはじめて食生活の内容が変化したことが、塩を求めることになったのであろうか。

 しかしまたこの地球上に生きている人間で、塩が身近に無かった人々は塩を用いていないような生活をしていたことは、すでに数千年前から知られていた。このことは「またその者らは、塩を加えて味をつけた食物をいまだに知らず」の記録1)の中で知られいた。

 食塩と疾病との関連が検討される中で、世界各地で塩のない生活をしている人々が生活していることが見直され、いくつかの例について述べられており2)、最近でも「"no salt" culture」(塩のない文化)に住む人々の観察3)でも知られたが、この地球上の多くの人々は人間の意志として食生活の中に塩を用いているのが現状である。

 それはどの様な理由によるのであろうか。

 

 すでに中国では紀元前7世紀に人々の塩の消費量を仮定して、これを基礎に塩の専売制を確立したといわれる。 

 塩を買うために兵士に与えられたお金として「argentum salarium」があって、これが現在のサラリ−の語源になったといわれ、また塩そのものが貨幣として使われていたところもある。

 また塩は中世の修道院の財政的基盤となり、早くも6世紀には塩はイタリヤのヴエネチアの商業の主要商品としてあげられ、ザルツブルグ(塩の城)付近の岩塩の採掘とともにヨ−ロッパに「塩の道」ができた。

 古代ロ−マですでに政府は塩に関わりをもち、すべての道はロ−マに通じるといわれた道のうちで最も賑やかな道は「Via Salaria」(塩の道)であったといわれ、中国でも塩に税金をかけた。フランスではガベル(gabelle)という語はもともと物品税一般をさす言葉だったのが、時がたつにつれて塩税だけを意味するようになった。塩税はすべての税の中でもいちばん憎まれ、フランス革命の大きな原因になった。イギリスが塩税をもつようになったのは比較的遅かったが、インド独立のきっかけになったガンジ−の「塩の行進」も塩の専売制に対する抵抗であった。

 このように塩をめぐる世界史には、どうやって塩を手にいれるかという問題から、最古の都市は塩の取引を中心として設立されたこと、古代中国では塩が国家の基本的な収入源であり、近代でも多くの政府もそうであった。19世紀以前は塩の利用は単純で、塩はほとんどは個人的消費か、食品産業で使うために生産されたのであったが、1850年からあとの1世紀間に塩の経済に根本的な変化がおこったが、それは主としてソ−ダの化学工業での塩の使用であったことが述べられている4)。

 

 麦や乳のような西欧諸国の人々の食生活の基本になった食品に塩が入ってくるようになったのはなぜであろうか。

 食物と歴史5)の中で、人間初の文明としてのエジプト人がすでに塩蔵魚を商品化してシリアやパレスチナへ輸出していたこと、ロ−マの美食家たちが、リクアメン(liquamen)という塩を用いた発酵調味料を用いていたこと、中世では岩塩の塩漬けによる保存法によって、14世紀と15世紀のバルト海や北海のにしんの塩蔵品が商いされていたことが述べられている。

 食と料理の世界史6)にも古代エジプト人が食用に供した魚は多くの場合、天日に乾かして、そのままか、あるいはさらに塩漬けにして食べた。ロ−マ人の料理に不可欠であったものは、塩水と魚からつくられた液状の調味料、ガルムであったと述べ、またホメロスが「海を知らず、食物に塩を使わぬ島の民」について「軽蔑的」に語ったとし、「肉を常食とする人々は食塩を加える必要はない、調理した穀物や野菜を常食する人々には、どうしても塩分を加える必要がある。」と述べている。

 

 塩が塩としての調味料として人々の食卓にのぼるようになったのは比較的近代のことではないだろうか。

 イギリスのロンドン塔の宝物館には1630年頃エクセタ−市から王の即位に際して贈られた塩つぼ「The Exeter Salt Cellar」のほか、いくつかの金製宝石入りの塩のつぼや塩のためのスプ−ンが王冠類と一緒に、しかも高い位置にかざられていた。英語で「above the salt」は上席、「below the salt」は末席といわれる。そこに塩の文化の一端をみた思いがしたが、また世界中に塩にかかわる話題はつきないと思われる7,8)。 

 このように人々の生活と塩との関わりは長かったので、塩についての学問的関心は多かったと思われる。しかし人間の関心事全体の中では塩についての文学と民間伝承が大きな領域を占めており、民俗学的研究によって塩に関する民間伝承上の資料は大いに増したけれど、科学と技術の面の資料は少なく、とくに健康面との関連を述べたものは殆どみられない。

 先にシュライデン(M.J.Schleiden)が塩について述べたことが9)根本的に変更されたようには思えないと、とくに塩の生産、消費、交易に関する世界史をまとめた文献4)をみても、塩と健康に関する文献は殆ど考察されずにまとめられており、わずかにカウニツツ(H.Kaunitz)が「人が塩をひどく欲しがることは否定せず、塩の摂取は多分感情的な興奮と関係があるのだろう」とする論文10)だけを引用するにとどまっている。

 メネリ−(G.R.Meneely)は、多くの民俗的資料を示すととともに、はじめて「the salt in the diet」(食物に含まれている塩)と「the salt added to the diet」(食物に付け加えられた塩)の区別をつけるべきだと述べた2)。

 ホ−レンベルグ(N.K.Hollenberg)が塩の摂取と腎機能との関連について述べたとき11)、塩に語源をもつ「salubrious」(健康によい、さわやか)とか「salutary」(有益な、健康によい)のように塩の重要性ばかりとはいっておられない、聖書の創世記にある「ロトの妻が塩の柱になった」は悪い方に、またロ−マ人は塩に懐疑的だとし、「cum grano salis」(少々うちわに、割引して)を結論を下すときにつけること、また現在でも英語のなかで、「we still express our reservations with a grain salt」(ほんの少しの塩で:割り引いて保留する)という表現をしているといっている

 Time誌が1982年になって「Salt:A New Villain?」(塩:新しい悪者?)の特集をだすが12)、この中でも塩に関する歴史が述べられている。

 

 日本現存最古の医学書といわれている「医心方」のなかの「塩」については、次のような記述がある13)。

「本草には、(味しおからく、温める作用がある。邪気を殺すものである。身体の毒は、下部に注ぎ、虫の食う病気とか、カゼ、熱や寒け、嘔吐、胸中のたんなどのほか、胸、腹のにわかに痛むものを治療し、肌膚や骨を堅くする効果がある。多く食べると肺の障害を起こし、しばしば咳をするようになる)とある。」

 「陶景(とうけい)は注の中で、(五味の中でも、すべて塩を失っては意味がない。魚肉を塩で漬けておけば、腐敗しない。塩で衣服をうるおしておけば杤爛(きゅうらん)の度がはげしくなる。それぞれ、塩の施すところのよろしきに従ってやるべきである)といっている。」

 「捨遺(しゅつい)には、(五味の中では、塩が主人である。四海いずこに行ってみても、塩のないところはない)とある。」

 「崔禹(さいう)は、(鬼邪(きじや)の毒を殺すのが主たる役目である。毒邪を去らしめるのに、塩の入らないものはない)といっている。」

 これらの記述は中国医学から引き継がれたものと考えられる。

 中国食物史の研究の中で、篠田統14)は、「人間が生きていくかぎりにおいて、塩は生活必需品中の必需品であって、調味料というよりも、むしろ不可欠栄養素に属する。」「かの塩井なくしては蜀の文化はなりたちえなかったし、夏周の文明、三晋の興起も運域の塩池にかかっていたとさえいわれる。」と述べている。

 

 わが国では古代縄文人は海岸で造られる食塩と黒曜石などの矢じりとの交換が行われたのであろうといわれ、「塩の道」という言葉ができた。また小魚を塩づけにして、「ヒシオ」という調味料を作った。奈良時代の文献では漢字を当てて「魚醤」とかかれ、これと同様のものに現在秋田の「ショツツル」として残っている。大豆の「未醤」は今では「味噌」と書くが、醤をしぼらないままのが未醤で、未醤を造るコウジが麹なのである。醤の樽の底にたまる液が「タマリ」で調味料で、醤油になったと述べられている15,16)。

 調味料というのは料理や食品に味や香りをつけるために人間が考えだしたものと考えられるが、英語でいう「seasoning」は語源からみると季節との関係もあさからぬものと考えられ、日本では調味料のうちの一番基本的な塩が弥生式時代に登場したと述べられている17)。

 日本における調味料として食文化の中心になった「味噌」「醤油」にはそれぞれ歴史的にその原形は中国にあったと考えられている。

 すなわち、世界最古の農業技術書といわれる「斉民要術」(593)には今日のしょうゆ、もろみの元祖とみられる醤と豆麹に類する「 」(し)の製法が記載され18)、中国で量産されるようになったのは、前200年代だが、わが国にもたらされたのは奈良朝時代で、伝来がおくれた理由はまだ塩が貴重品であったからである。醤油は味噌とともに中世前期に中国から伝来した調味料であったが、これが一般庶民の調味料となったのは鎌倉時代からで、その主な原因は食塩がまだ貴重品であって、これを用いた調味料の利用者にも限界があったからであろうと述べられている。日本語のみその語源も、「高麗醤」(こましょう)、「未醤」(みしょう)、「美醤」(みそ)、また高麗(こま)方言の「密祖」(みそ)といろいろあるという19)。

 伊勢神宮には「御塩」(みしお)の神事がある。

 わが国でも「塩の道」をはじめととする塩に関する民俗学的研究があるが20−31)、そのどれもが塩が生活必需品であるとの前提で書かれているように思われ、「人は塩を必要とする」からはじまっている。

 時雨音羽は大蔵省勤務時代に「塩と民族」をまとめ20)、世界各地における資料を紹介はしているが、人体と塩については「人間は鹽がなくては生きられぬように出来ている」からはじまって書いている。酸性食品・アルカリ性食品を中心に述べ、古書「本草綱目」にある「西北方の人は、食鹹きに耐えずして而して壽多く、病少く顔色よし、東南方の人食鹹きを欲して而して壽少く病多し」を引用はしているが、「このようにキメつけているが、これはどうかと思う」と述べ、「北の地方では特に鹽辛いものを愛好する。秋田の鹽汁然り、北海道のさんぺい汁然り、そして北の方面に特に早死にの統計はないのである」「人間は、鹽に対して文句のいへた義理ではないということになる」と詩人らしく、色々意見を述べている。

 日本専売公社発行の「塩の話あれこれ」21)は公社になって上述の資料をもとに編纂されたものと思われるが、「人間は一日に12-15グラムの塩が、生理的にどうしても必要である。重労働や熱作業に従事する場合は、40-50グラムと摂取量が増してくる。昔から(米塩)といわれてきたように人間が生きるために塩はなくてはならないものである」との書き出しではじまっている。

 民俗学をはじめた柳田邦男は日本の山村において三度とも白米を食べる土地は殆どみられないこと、雑穀を混じったものはひろく「かでめし」とよばれていること、味噌・漬物・煮〆が三つの大きな副食物で、他は殆ど云うに足りない、醤油は殆どないといった食生活について観察した記録をのこした22)。

 その中で塩の民俗学をまとめた渋沢敬三23)も、健康面については当時の桜井芳人の栄養化学の著書を引用し、「しかし人は塩なくして生存しえない。消極的ではあるが保全素としての機能は人または動物にとって絶対である。人は塩の補給可能の前提にのみ生存している。どこの山野であろうと塩の補給されざる限り人は棲息しえない」の立場から記述している。

 日本食物史をまとめた樋口清之25)は食塩問題について「人体に不可欠な塩分の補給をどうしていたかということである」と問題提起をし、「わが国石器時代にも海水から食塩を作った証左は存在せず、また岩塩の産出もない」とし、「動物臓器中の有機塩摂取こそは、食塩登場以前の重要な塩分補給手段であったと言うことができると思う」と考察している。

 また日本食生活史をまとめた渡辺実26)は、「自然物雑食時代、縄文式時代の人々がどのような調味料を使用していたか判然としない。食塩は調理上必要であるばかりでなく、人体には塩分はなくてはならない存在である。縄文式時代には海水から食塩をとった遺物・遺跡は皆無であり、当時の聚落も海岸よりも内陸に多く発達したものが多いことなどから考えると、食塩が使用されていなかったと思われる」と述べている。

 しかし加藤秀俊の「食の社会学」30)の中で「塩」について述べられているところには、健康との関わりについて「塩というものが、人間の生存にとって不可欠な物質である、という事実なのだ。他の調味料、たとえば胡椒だの唐子だのといったものは、それを摂取しないか、といってべつだん生存上、あるいは健康上、どうのこうの、ということはない。しかし、塩というののは、人間だけでなく、動物にとって、どうしても必要な物質である。これがなくては、細胞の新陳代謝も行われないし、胃液の分泌もうながされない。塩をとらなければ死んでしまうのである。」と生理学の教えるところを理解して、論議を展開している。

 昭和58年になって編集された「世界の食べもの」の調味料の文化の中で、「最古の調味料・塩」について、日本専売公社の村上正祥は「雑食動物である人類の祖先も、本能的に塩分を好み、塩は人間にとって最初の調味料になった。」「人と塩のかかわりは、人類出現以来のことと思われるが、考古学的にはベルギ−で発掘された古代遺跡の研究から、5000年以前に塩がコムギの調味料として使用されていたと考えられる。」と述べている31)。

 

 わが国は四面海に囲まれ、海岸には塩があり、縄文時代に製塩土器がつくられて以来32)、製塩の技術は進み生産はあがり、わが国内に「塩の道」はできた。

 北海道のアイヌの食文化には塩が殆どみられない33)のは、魚は「サツ・チェツプ」(サツは乾く、チェツプは魚で、素干し・燻製を総称する)で、冬は零下20度を越す気温のなかで凍ってしまい、「ル・イベ」(ルはとける、イベは食物:ルを凍るというのは誤訳)を食したことによる。生食は「フ・イベ」(フは生の意)と呼んだ。また土佐ではイキのよい魚を食したから、「無塩」は鮮度を自慢した言葉であった34)。

 海岸から離れた山村に「無塩」「生魚」(ぶえん)22)の魚はご馳走という地方もあるが、比較的狭い日本のような島国では塩のない生活は育ち得なかったものと思われる。

文献

1)ホメ−ロス(呉茂一訳):オデユツセイア−(上.下)(第11書123,第23書 270).岩波文庫,1971,72.

2)Meneely,G.R.:Editorial. Am. J. Med., 16, 1-3, 1954.

3)Oliver,W., et al.:Blood pressure, sodium intake, and sodium related hormones in the Yanomamo Indians, "No-salt"culture. Circulation, 52(1), 146-151, 1975.

4)R.P.マルソ−フ(市場泰男訳):塩の世界史.平凡社,東京, 1989.

5)レイ・タナヒル(R.Tannahill)(小野村正敏訳):食物と歴史.評論社. 東京,1980.

6)ケイテイ・スチュワ−ト(木村尚三郎訳):食と料理の世界史.学生社, 東京,1981.

7)佐々木直亮:衛生の旅,ロンドンの名所.公衆衛生,32, 223-225, 1968.

8)佐々木直亮:世界塩の旅.弘前大学キャンパス・ジャ-ナル,5, 4-5, 1983.

9)Schleiden,M.J.:Das Salz. Leipzig, 1875.

10)Kaunitz,H.:Causes and consequence of salt consumption. Nature. 4543, 1141-1144, 1956.

11)Hollenberg,N.K.:Set point for sodium homeostasis:Surfeit,  deficit, and their implications. Kidney International, 17, 423-429, 1980.

12)Time:History According to Salt. March 15, 1982.

13)丹波康頼(粟島行春訳):医心方(食養篇).p.220, 東洋医学薬学古典  研究会,東京,1990.

14)篠田 統:中国食物史の研究.八坂書房,東京,1978.

15)高木和男:食と栄養学の社会史:第一増補版.p.74,(自費出版),  1985.

16)高木和男:食からみた日本史(上).pp.18,30,68,97, 芽ばえ社. 東京,  1986.

17)太田靜行:調味料の発達と現状.食の科学, No 56, 14-18, 1980.

18)海老名英雄:みそ.からだの科学, 25, 102-105, 1969.

19)安達 巌:加工食文化2,000年の歩み.食の科学, No 62, 93-102, 1981.

20)時雨音羽:鹽と民族.日本講演協会,東京,1943.

21)日本専売公社:塩の話あれこれ.1970.

22)民間伝承の会(柳田国男編):山村生活の研究.p.268, 岩波書店, 東京,  1938.

23)渋沢敬三:塩(塩俗問答集を中心として),柳田国男氏古稀記念論文集原  稿,1943年12月記(宮本常一:日本民俗文化体系3,渋沢敬三, p. 242-  283, 講談社,東京,1978.)

24)山田 清:鹽と文化.日本塩業協会,東京,1948.

25)樋口清之:日本食物史−食生活の歴史.p.53, 柴田書店,東京,1960.

26)渡辺 実:日本食生活史.p.29, 吉川弘文館,東京,1964.

27)平島裕正:塩の道.オリオン社,東京,1966.

28)富岡儀八:日本の塩道−その歴史地理学的研究:古今書院,東京,1978.

29)亀井千歩子:塩の民俗学.東京書籍,東京,1979.

30)加藤秀俊:食の社会学.文芸春秋,pp.57-68, 東京,1978.

31)村上正祥:最古の調味料・塩.週刊朝日百科130. 世界の食べもの・テ− マ編.(10) 調味料の文化,258-262, 1983.

32)稲田孝司:日本の生産遺跡:月刊文化財, 11, 4-9, 1979.

33)並木正義:アイヌの食生活.臨床栄養, 42(4), 457-465, 1973.

34)近藤 弘:日本列島の魚食文化.食の科学,No 37, 58-65, 1977.

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