1870年イングランド・ウエルズにおける癌の死亡統計にもとずいて「癌地図」が作られて、地質図との比較が行われた。
すなわち癌についての「地理病理学的観察」である。
前世紀の中頃英国に端を発した癌の地理病理学的研究は今日の概念からすれば疫学(Epidemiology)というより地方流行病学(Endemiology)の形をもって進展していた。
わが国において死亡統計がとられるようになって胃癌による死亡が多いことはすぐ判明したが、瀬木三雄ら1)は世界各国の統計官庁に直接問い合わせて入手した資料により、世界の胃癌の年齢訂正死亡率を算出した。
訂正死亡率は1950年における46カ国の男女合計人口の年齢構成を基準にとって計算された。すなわち、各国の人口の年齢構成がこの46カ国合計のそれと等しいと仮定した場合に示す死亡率であるが、1954,55年の日本における胃癌訂正死亡率は男女ともチリ−につぎ世界第2位の高い死亡率を示すことが判明した。その後他の国では減少傾向にあるものの日本の胃癌死亡率は1966-67年では第1位にとどまった2)。
胃癌死亡率の分布図を検べると、文化条件、社会条件等によって解決できない「奇妙な地図」が画き出されることは前世紀から知られていたが、このように近代的手法の「記述疫学」によって癌について重要な手がかりが与えられ、世界の学者に「癌の疫学」についての興味をもたせることになった。そしてなぜ日本に胃癌の死亡が多いのかの説明について数多くの要因との関係が検討されることになり、次第に胃癌の実態が浮き彫りにされることになった3)。
佐藤徳郎は胃の粘膜に損傷を与える物質の検索を試み、その一つに高濃度の食塩含有食品を考え、胃の粘膜の損傷について動物実験を行い、「高濃度食塩含有食品の胃粘膜障害作用の原因について」「日本人の食塩摂取の形態」「高濃度食塩含有食品による胃壁障害発現を左右する因子について」考察を行い、チリ−は日本より胃癌が多いが食習慣は殆どわかっていないがとした上で、「食塩含有食品を摂取することが胃癌を多発させる原因であるとの作業仮説」をたて、胃癌学説についてその仮説の適否を吟味した4,5)。
1959年佐藤徳郎はロンドン滞在中に「何処へ行っても山際先生のこと、吉田教授、瀬木教授のことを聞かれます。」「デンマ−ク、コペンハ−ゲンで、Dr.Clemmesenに会いました。丁度南阿の癌調査に参加し、帰られたばかりで向こうの様子を話されました。アメリカ、ベルギ−の学者の人と協同調査で、南阿ではSchweizer博士に会ったとき、どうも土人の胃癌は塩からいものをとるためらしいと話しておられたそうです。そうだとするとデンマ−クの胃癌(田舎に多く、また貧困者に多い)がよく説明できるとDr.Clemmesenは話していました。」と便りを日本へ送った6)。
癌(Krebs, cancer)は昔からある腫瘍で、その原因について病理学者のフイルヒョ−(R.Virchow)は細胞病理学の立場から慢性刺激説を述べた。ドイツに留学してフイルヒヨ−から教えを受けた山際勝三郎は「ヒトリ環境ノ感化ハ、能クガン細胞ヲ養成ス」との「胃癌発生論」を出版、その考えを実証するべく癌の発生実験を行って世界で初めて人工タ−ル癌発生に成功した。市川厚一と共に兎の耳に切り傷をつくってコ−ルタ−ルを長期にわたって塗るという実験であった。大正4年(1915年)5月「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」と山際をしていわしめた日がやってきた7)。
この癌の実験的研究によって癌の原因への接近は化学的物質へ目が向けられることになり、次々と研究が進んだが、「細胞の癌化には少なくとも二つの段階がある−イニシエ−ションとプロモ−ション」と考えられるようになった8,9)。
イニシェ−ションとは「引き金を引くもの」で、プロモ−ションとは「がん化の完成を促すもの」である。
そして現在世界中の癌研究者は、癌の究明に日夜しのぎを削っており10)、癌の発生は癌遺伝子を含め多要因としてとらえられるようになり、多段階の癌の発生、また癌の発生を抑制する要因も考えられ、探し求められる時代となった。
その中で食塩と胃癌との関連の研究はどのように展開され、その結果現在ではどのように考えられているのであろうか。
佐藤徳郎らはわが国各地における胃癌死亡率と高濃度食塩含有食品の摂取状態との関係を検討し11,12)、また北部・中南部ヨ−ロッパにおける高濃度食塩含有食品摂取状況と胃癌の死亡率の時代推移について報告し、高濃度食塩含有食品の摂取の減少した地域、例えばノルウエ−、フィンランド等では胃癌死亡率が急速に減少しつつあることを述べた13,14)。
胃癌についてとくに食餌因子については平山雄によって疫学的研究もすすみ、食塩過剰摂取、カルシウム不足が指摘された15)。
ヘンセル(W.Haenzel)らはハワイ日系人の研究で、漬物、干魚、塩魚などが、胃癌群が対照群に比べてより多く食べていることを明らかにし、一般的に日本的な食事をする者に胃癌の危険率が高いことを報告した16)。
また食塩摂取が多く脳血管疾患による死亡が多く、高血圧が多いと報告されたニュ−ファウンドランドにおける死亡統計で、日本ほどではないが胃癌による死亡率が高いと報告された17)。
日本の東北地方で相接している秋田県と岩手県の2町村で、胃癌の死亡率が著しく異なるという理由を探求し、食塩排泄量は14-15グラムと差がないことを認め、食餌中突然変異原性の比較による検討を行い、胃癌高率地域では変異原性の高い食事を摂り、低率地域ではそれの低い食事を摂っていることを観察し報告した18)。
また広畑富雄19)によって日本人の胃癌の患者・対照研究を行った成績も報告された。
これらの胃癌の成因についての研究をまとめて広畑は今までの研究で、米、じゃがいも等の穀類、澱粉質を多くとり、塩からいもの、漬物等を多くとり、また塩魚、干魚、焼魚を多くとる者にリスク(危険)が高くなり、一方牛乳、生野菜、果物等はリスクを低くすると述べ、胃癌の原因は完全に解明されたわけでは決してないが、このような「リスクを高めるものを少なく、リスクを低くするようなものはとるという」パタ−ンの食事をとることが胃癌の予防に実際上重要と考えると述べた19,20)。
胃癌を人工的に発生させるという動物実験はなかなか成功しなかったが「ラッテの胃癌の研究で有名なN-メチル-N'-ニトロ-N-ニトロソグアニジン(MNNG)を胃に少し作用させる。あまりやらないで、そこにプロモ−タ−をやると胃癌が沢山できたとする」と述べていた杉本ら9)は、1984年になってようやく食塩が「MNNG」による実験的胃癌のプロモ−タ−の作用があることを証明して報告した21)。
高橋道人ら22−24)は同じく消化器発癌に対する食塩の影響について実験的にアプロ−チし、高食塩食が胃癌の二段階発生のイニシエ−ションの時期にも、プロモ−ションの時期にも作用し、促進的に影響を及ぼす因子であることを明らかにし、「このような日常的に食生活と深く関わる物質が、それほどかけ離れない濃度で生体に作用している事実は重要であると思われる。今後、食塩の種々の発癌に対する修飾作用の解明が望まれると同時に、食生活において食塩の摂取量をできるだけ低下させることが、循環器系疾患ばかりでなく、胃癌の予防の見地からも重要と思われる。」と述べた。
このような研究がすすむ中で、胃癌の予防と日常生活について、とくに食塩との関係については現在次のように述べられている。
「胃癌の場合には、どうも極度に高い塩の摂取がプロモ−タ−ということが考えられている」8)
「第3番目は、塩からいものを大量とってはいけない。発がん性物質の研究で、第1段階でがん化のひき金となるものの次に第2段階の作用を持っているものが見つかってきた。例えば塩です。」25)
「塩辛いものを多量に食べない」26)
「塩蔵品、漬物、くん製の摂取を減らす。これらを多食する中国、日本、アイスランドには、胃癌、食道癌の発生が多い」27)
「高濃度食塩は疫学的研究、動物実験から胃がんの増加要因であるとみられている。」28)
「食品の保存方法(塩蔵、くん製、冷蔵・冷凍保存)なども、直接的また間接的に発がんに関係しているとみられる。」29)
「食塩は胃癌のプロモ−タ−であることは確かです」10)
「胃がんは慢性胃炎があり、とても塩辛いもの、とても熱いものが好きでタバコをたくさん吸い、大酒をのみ、大めし、早喰いで良く噛まず、野菜、緑黄野菜、乳製品を摂らず、胃に負担のかかる食習慣の人に多い。」29)
昭和40年(1965年)癌や循環器疾患の疫学的研究は開始されたばかりであったが、アメリカにおける冷蔵庫の普及と胃癌の死亡率の低下という時代的推移にヒントがあり、循環器疾患としての日本における若い時から脳血管疾患が多発することに塩蔵品の習慣的多食が関連していそうであり、また乳製品のような高位保全食品の摂取割合を増して日本人の健康水準を向上することを願って、科学技術庁資源調査会は「食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告」(いわゆる塩蔵から冷蔵にするコ−ルドチェ−ンの普及についての勧告)をまとめた30,31)。これは考え方にによれば食生活についての国家的干渉ともいえる方策であったが、結果的にはその後日本人の胃癌や脳卒中の死亡率は好転したことが認められた。
「胃癌死亡の減少には検診など早期癌発見によって治療成績をあげる努力が実を結んだ部分もあるが、胃癌の発生そのものが減少している面も大きい。胃癌減少の原因として一番考えられるのが食塩摂取量の減少と冷蔵庫の普及により生鮮食料品をとれるようになったことである。」32)
「食生活の改善(米と食塩の摂取量の減少により胃がんのみ約30%の減少が見込まれる)により約8%のがんの予防が可能であると推計された。」と述べられている33)。
1970年(昭和45年)ロンドンで第6回世界心臓学会が開催され、そのとき高血圧の成因についての円卓会議において「食塩因子」について述べたとき、ヨッセンス(J.V.Joossens)34)は、世界の死亡統計をもとに食塩摂取は脳卒中と胃癌両者にかかわりのある問題だと追加発言した。
1982年全米科学アカデミ−「食物、栄養とがん」に関する特別委員会報告が出たが、その中で食塩との関連についての資料についてはふれていないが、「がん予防のための当面の食事指針」で、「世界のいくつかの地域、特に中国、日本、およびアイスランドのように、塩蔵品(塩漬を含む)、あるいはくん製食品を食べる国民に、ある部分のがん、特に食道や胃がんの発生が他の地域よりも目立つ。さらに、食道のくん製法や塩蔵法の中には、高濃度の多環式芳香族炭化水素と、N-ニトロソ化合物を生成するものがあるようである。これらの化合物は、バクテリアに突然変異を誘発したり、動物にがんを発生させるが、ヒトに対する発がん性も疑われている。それゆえ、委員会は、塩蔵品(塩漬を含む)、およびくん製食品の摂取は最小限にとどめるように勧告する。」としている35)。
1983年ミルビッシュ(S.S.Mirvish)は、胃の中で亜硝酸塩からニトロソアミン(nitrosamide)ができ、それが胃癌の成因としての可能性があるのではないかととの立場から胃癌の成因についての総説を書いたが、高食塩濃度の影響についてふれ、日本における研究を紹介し、ヨッセンスらの成績もあり、イングランド・ウエルスでは胃癌と高血圧・脳卒中と食塩摂取との関連は認められなかったとする研究もあるが、動物実験の成果は胃癌には高い浸透圧をもつ食塩液(hypertonic salt solution)に胃がさらされている程度に関連し、循環器疾患の方は全食塩消費(total salt consumption)によりよく関連していることを示唆し、そしてまた塩の使用は主としてニトロソアミンの前駆物質をも含む塩魚や肉製品の摂取を反映し、胃癌はこれらの前駆物質への曝露にも基本的にかかわっている可能性があると述べた36)。
1)瀬木三雄、藤咲 暹、栗原 登、平出 光、菅沼達治、尾形嘉子:胃癌の 疫学−殊に地理病理学的観察を中心として.最新医学,14(1), 11-21, 1959.
2)栗原 登:胃癌の疫学.広島医学,29(4), 363-371, 1976.
3)平山 雄:統計にみる胃癌の実態.臨床消化器病学,6(1), 3-7, 1959.
4)佐藤徳郎、福山富太郎、鈴木妙子:高濃度食塩含有食品による胃粘膜の損 傷について.日本医事新報,1835, 25-27, 1959.
5)佐藤徳郎:胃癌の成因とその周辺をめぐる問題.公衆衛生,26(1), 27-39 , 1962.
6)佐藤徳郎:ロンドン便り.公衆衛生,23(11), 698, 1959.
7)上田市立博物館:郷土の人物山際勝三郎.1980.
8)杉村 隆:癌の予防を考える.学術月報,35(4), 240-248, 1982.
9)杉村 隆:今、がんの科学は? 食品衛生研究,33(3), 205-224, 1983.
10)黒木登志夫:人はなぜガンになるのか.暮しの手帳,25, 102-117, 1990.
11)Sato,T., Fukuyama,T., Suzuki,T., Takayanagi,J., Murakami,T., Shiotsuki,N., Tanaka,R. and Tsuji,R.:Studies of the causation of gastric cancer. 2.The relation between gastric cancer mortality rate and salted food intake in several places in Japan. 公衆衛生院 研究報告,8(4), 187-198, 1959.
12)佐藤徳郎、福山富太郎、鈴木妙子、高柳恂子、村上忠重、汐月信也、田中 領三、都司 領:胃癌死亡率と高濃度食塩含有食品の摂取状態との関係. 綜合医学,16(11), 1087-1097, 1959.
13)佐藤徳郎、福山富太郎、鈴木妙子、高柳恂子、坂井義太郎:北部ヨ−ロッ パの胃癌地帯における高濃度食塩含有食品の摂取状態.綜合医学,17(8) , 619-622, 1960.
14)佐藤徳郎、福山富太郎、鈴木妙子、高柳恂子:中南部ヨ−ロッパの胃癌死 亡率と高濃度食塩含有食品の摂取状態との関係.綜合医学,17(9), 699-702, 1960.
15)Hirayama,T.:A study of epidemiology of stomach cancer, with special reference to the effect of the diet factor. 公衆衛生院研究 報告.12(2), 85-96, 1963.
16)Haenszel,W., Kurihara,M., Segi,M. and Lee,R.K.C.:Stomach cancer among Japanese in Hawaii. J. National Cancer Institute. 49, 969-988, 1972.
17)Pfeifer,C.J., Fodor,J.G. and Canning,E.:An epidemiologic analysis of mortality and gastric cancer in Newfoundland. Can.Med.Assoc.J. 108, 1374-1380, 1973.
18)加美山茂利:胃癌死亡率の地域差に関する実験的研究.日衛誌,43(1), 82-97, 1988.
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20)広畑富雄、他:疫学からみた栄養・食糧と癌.栄養と食糧,33(1), 1-7, 1980.
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22)高橋道人:消化器発癌に対する食塩の影響.癌の臨床,32(6), 667-673, 1986.
23)Tatematsu,M., Takahashi,M., Fukushima,S., Hananouchi,M. and Shirai,T.:Effects in rats of sodium chloride on experimental gastric cancers induced by N-methyl-N'-nitro-N-nitrosoguanidine or 4-nitroquinoline-1-oxide. J.N.C.I., 55(1), 101-106, 1975.
24)Takahashi,M., Kokubo,T., Furukawa,F., Kurokawa,Y., Takematsu,M. and Hayashi,Y.:Effect of high salt diet on rat gastric carcino- genesis induced by N-methyl-N'-nitro-N-nitrosoguanidine. Gann, 74, 28-34, 1983.
24)山村雄一:がん予防十二ケ条.適塾,18, 30-37, 1985.
25)河内 卓:こうすれば癌にかからない.毎日ライフ,No.7, 28-40, 1981 .
26)河内 卓:全米科学アカデミ−の”ガン予防六カ条”.日本医事新報, 3057, 139, 1982.
27)富永祐民:がん予防と食生活.月刊健康,58-63, 4/'88.
28)河内 卓:がんと食生活.月刊健康,52-55, 1/'90.
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31)渡辺 昌:食習慣とがんについて.月刊健康,54-57, 7/'90.
32)富永祐民:がん死はどれだけ減らせるか.月刊健康,59-61, 2/'91.
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34)全米科学アカデミ−「食物、栄養とがんに関する特別委員会報告」(厚生 省公衆衛生局栄養課監訳):がん予防と食生活.pp.24-25, 日本栄養食品 協会,東京,1988.
35)Mirvish,S.S.:The etiology of gastric cancer. JNCI, 71(3), 629-647 , 1983.