SPUR弘前だより11−20

 (昭和48年−56年)

シュプ−ル12号によせて(巻頭言)

 

 ”恋人は遠くにありて思うもの、

   夏にスキ−を思い、冬にヨットを思う”

 これは、今年の卒業生に送った私のことばである。

 私がスキ−部長をし、又大学のヨット部の部長から出た文句であるが、美しい5月がおわり、初夏を迎える今日この頃、この巻頭言を書いていると、冬のスキ−のことが思われ、自分にはこの言葉がぴったりするのである。

 このスプ−ルもそんな意味があるのであろう。先輩は昔の学生時代を思い出し、学生は来るべき冬を思う。

 このような本をつくる役目にあたった人はご苦労だが、記録は大切であり、そこに、スプ−ルがつく。(48.12.22.)

 

野沢だより(11)

 (野沢でのアルバムはこちら

 ”休診の 札をかかげて スキ−行”

 東医体が開かれた野沢温泉スキ−場の日景ゲレンデに立ったときにみた碑にきざまれていた句である。「富井先生頌徳の碑」とあった。富井先生という方を私は知らないが、野沢温泉で診療され、スキ−を愛された先生の徳がしのばれ、又良き時代を思わせる句とよみとったのである。

 この句をみたとき、”私も一つ”と書き留めておいたものを、「野沢だより」としてご紹介しよう。内容は即今年の野沢大会の話題であり、私のは川柳といった方がよい。

 ”東医体に ひかれて 部長 野沢ゆき”

 長野で電車にのりかえたとき、善光寺祭りのにぎわいをみてうかんだ句である。八方尾根、赤倉、そして今回は野沢である。

 開会式にて

 ”お前 まだいるのかと ひやかされ”

 学四の本山君が最後のレ−スに参加した。その本山君が私に

 ”カワイコチャンは 来ていませんね と語りかけ”

 赤倉でみかけた慶應の西野由美子さんをさすものと思われる。

 ”カップかえす彼女は リラかと皆は聞き” 

 昨年度女子でカップをさらった芦田リラさんは今年は顔をみせなかった。

 ”アイスバ−ン苗場ではよかったのに 野沢では”

 丁度ワ−ルドカップが苗場で開かれていたことをさすが、前日の練習で負傷者が出たことを、開会式のときに ひにくられた。

 ”コンタクト 忘れたばかりに 8秒差”

 午前中の快晴だったのが、15kをはじめる頃に吹雪になり、エ−ス本山君が8秒差で2位となった残念なレ−スだった。

 ”どうあげは スキ−にかけた男の ハイライト”

 リレ−が終わったあと、本山君に花たばがおくられ、部長から卒業証書が渡された。

 「君は弘前大学医学部において 勉学に スポ−ツに すばらしい成果をおさめ ここに卒業したことを証します。弘前大学長代理・医学部長代理・スキ−部長。昭和48年3月15日」

 ”勉学も 入っているのだと 注釈し”

 後輩をかえりみての本山君の一言。

 今年の賞は、オリンピックなみのメタルだった。

 ”金メタル かけるついでに 手をにぎり”

 昭和医大の同窓会からの賞だったが、会長が優勝女子選手にメタルを渡すときの風景である。

 ”ブラ− ブラ− するのは 良い気持”

 リレ−のメンバ−一人一人くれるのかとの心配もあったが、メタルを首にしての本山君の感想である。

 ”チャリン チャリンさせるのは誰だと ひがむ声”

 メタル二つ以上首にかけると音がした。

 ”夜中まで エ−ルのつづく 月おぼろ”

 ”アルペンが 一点もとれぬと 男なき”

閉会式のあった夜、デイスタンスの向井君がないたという。

 その他の話題。

 ”6時半 デイスタンスの部屋まで 声をかけ”

 ”おしりから ゴ−ルに入る 女子回転”

 ”イヤ−ンとは 棄権したらの声への 返事なり”

 ”東医体 部長の役目は カメラマン”

 ”華麗なるスキ−は こんなものかと感心し”

 窓ガラスにうつる姿をみて下山君。

 ”華麗なるスキ−は あんなものかと彼女いい”福田俊子さん。

 ”来年の 目指す相手は 彼女のみ”

 今年の好成績を期待された駒木公子さんではあったが、来年の相手は北大の枝衣子さんのみ。

 ”一年で あんなにうまくなるとは 新人賞” 

 大いに活躍した加賀英子さんへの批評である。

 ”直江津の海はのどかに春の陽に”

 ”順法のあふりをくらって汽車おくれ”

 ”パチンコで医学生と顔あわせ”

 ”雪やけとビ−ルとで顔ほてり”(食堂車にて) 終(48.12.22.)

 

巻頭言:シュプ−ル13号によせて

 

 知人の息子の結婚披露宴に出たときの話である。

 その息子はある大会社の新入社員であったのだが、社長自ら出席していたことに、皆おどろいたのである。

 彼はエリ−トコ−スにのっていたのであろうか。そうであるかどうかはわからないが、その社長自ら語ったことによると、土曜、日曜の会はいつもゴルフのことを考えて出席しないのだが、今日は運動部の後輩の結婚式だと聞いて出てきたのだ、ということであった。

 その大会社の社長が、若い後輩とスクラムをくみ、エ−ルを叫んでいた姿は、その披露宴の締めくくりとして、今も思い出される。

 運動部の体系は、どちらかというと日本の社会構造でよくいわれる「タテ」の関係でつらぬかれている。そして学生時代の数年間生活を共にした友人の面影の「ヨコ」の関係とだぶって、卒業後何十年もたっても、後輩の結婚式に顔を出し、又部費を送らせる力をもっているものといえよう。

 このシュプ−ルが「タテ」と「ヨコ」のつながりに役立つことを願っている。先輩の諸君も、原稿を送ってくれたまえ。そしてカンパもお忘れなく。(49.12.20.)

 

弘前だより(12)

 

 お元気ですか。

 今年の東医体では、栂池に行ってきました。「ツガイケ」とよみます。

栂池でのアルバムはこちら

3月15日の大学の卒業式と重なるのはいつものことですが、今年は丁度東医体のすこし前に東京で開かれたWHOの「Meeting on the control of Stroke and Hypertension on the community」にゲストとしてよばれていたので、その会をすませ、新宿から夜行のアルプス特急でかけつけました。3日間の久し振りのスピ−キングにいためつけられた頭には、栂池高原の春雪の風景は一段とすばらしく感じられました。

 おまけに、今年はケガもなく、皆元気だったので。もっとも原因不明の下痢に2名なやまされはいましたが。

 春スキ−に顔をすっかりやられてしまった八方尾根の経験から、昨年以来完全覆面ですべったので大してやけませんでした。

 ところが休みをとって東京から駆けつけてくれた本山君は久しぶりのスキ−ですっかりやけ、”ム−ン・フェイス”になって帰っていきました。東二の産科の外来でどんな顔で勤務したことか。

 「部長の役目はカメラマン」と書いた手前もありますが、今年は全部カラ−で撮りました。幸い快晴に恵まれたこともあって、色とりどりの選手のスタイルをのせたアルバムをつくることができました。

 成績については、あとの記録をご覧ください。札医がのし上がってきて、綜合3位になってしまいましたが、アルペンに紅一点の入賞があったことは、「男なき」せずにすんだ功績といえましょうか。

 そのほか、2月10・11日と雲谷で、岩手、東北との3大学対抗で見事優勝したこと、2月23日の「オイコン」、この6月3日の新入生歓迎コンパが私のしっているニュ−スです。これらの中からひろった話題について例の駄作でお知らせしましょう。

 ”シュプ−ルの編集に 精根つかいはたし”

 ”そのほかに 理由があるか 元気なし”

 前回の12号をごらん下さい。このご本人、今年はデイスタンスで頑張るそうですから、ご安心下さい。なにしろ北大からも注目されている彼なのですから。

 ”オイコンの記念品は つがるぬり”

 ”花たば(卒業生に送る)が4人に二つとはこれいかに”(予算節約のため)

 ”東京の人 やればやれるものだと 自信もち”(黒川君)

 ”オシドリのデイスタンスとはおつなもの”

 ”うちのキミ子にも ならわせるかな”(?)

 ”アルペンはものにならぬと デイスタンス”(このところメタルをとるのはデイスタンスのみ)

 ”入賞と 留年とは ひきかえか”(留年する位にやらないと入賞できないにか、との岡部君の独り言)

 ”あの頃は ボ−ゲンから 教えてもらったのに”

 ”先輩は良いものだと 幹事いい”(青森市で開業の柿崎幸雄先生が顔をみせた)

 ”三大学に優勝し 自信もち”(アルペンも東医体で入賞できるかと思われたのに)

 

 次に今年冬になる前につくった詩をご紹介しましょう。

  題 「そわそわするのは何故でしょう」

     雪がちらちら降る今日この頃

     彼女は何故そわそわするのでしょう

     遠く北国のことが思い出されるのでしょうか

     いいえちがいます 彼女の生まれは青森なのですから

     それでは講義(衛生学)をさぼっているのが 

     気になっているのでしょうか

     いいえそうとはいえません

     彼女の出席状況は良好で 教授から注意のラブレタ−を

     もらってはいない方なのですから

     では昨年のスキ−で新人賞をもらったからなのでしょうか

     いいえそうではありません

     格段の進歩で インカレにも入賞する実力

     すかり自信ができたのですから

     彼女が この頃そわそわするわけは

     雪のふる大鰐スキ−場が思い出されるからなのです。

     朝の時間は大鰐で それで彼女は

     満足しきって学校へくるのです

 

 この気持わかるでしょう、うんわかるね、と弘前だよりを終わります。

                          (49.12.20)

 

巻頭言:シュプ−ル14号によせて

 

 今 医学部の30年史が編集されている。昭和19年5月に青森医専の開校から早30年、運動部としては昭和21年の春の野球部、秋のスキ−部の誕生が最も早い。

 「青森医専が新設されて間もなく、スキ−部をつくろうではないかという話合いがあったが、戦酣(タケナワ)なる当時の状況では、それを許しませんでした」

 「終戦となったその後、極めて困難な食糧事情と戦いながらも、スキ−愛好者のスキ−部創設の熱意止み難く、昭和21年秋、遂に部が出来たのであります」

と、丹内正一部長はのべている。

 シュプ−ル誕生は昭和34年、30年の半分を記録してきた。

 今年のシュプ−ルに東医体冬季部門綜合優勝の一翼をになった記録をのせることができることは、本当にうれしいことだ。(51.1.4.)

 

猪苗代だより(13)

 (猪苗代でのアルバムはこちら

 今年の東医体は、”猪苗代”で開かれた。

 〇合宿は 国家試験の 準備会

 〇モギ試験 問答つづく 夜の九時

「卒業式にも出ないで参加した4年生の伊沢・石原(公子)両君を相手に、2,3年生が模擬問題を出し、最後の仕上げをする」

 〇”みすす”とは 何のことかと わかりかね

「東医体のプログラムに、弘前大の民宿は”みすす”とあった。”みすず”のミスと、来てみてわかった」

 〇民宿は 最小限の 設備あり

「ガタビシと、 階段をあるくたびにゆれる安普請ではあったが・・・」

 〇しばらくは 熱源がわからぬ コタツなり

「久しぶりの豆練炭のコタツであった。玄関の中で炭をおこしていたので、部屋がくさくなること。CO中毒になることを注意しておいた。

 〇食堂に 調理師の額かかる 民の宿

「”スタミナをつけなければ”と、一皿四百円を追加する。計2400円となった」

 〇入浴中 とは知らず 扉あけ 美女姿

「女子入浴中とは知らず錠のない戸をあけてしまった。彼女はたしかに女であった」

 〇広島の彼女 ”八木さんいてる” と声をかけ

 〇開会式に お化粧をしてでる 身だしなみ 

「ベスト・ドレッサ−、全員に注目され、そのファイト、見事弘前女子の名を結果(入賞)で示す)

 〇アルペンは 何年ぶりかで 入賞し

 〇”こっちへ行くんですか あっちですか あ− とまりそうだ”というスラロ−ム

 〇よくもまあ 同じすべりをする 女子医連

 

 最後に,2月19日のスキ−部送コンの会で

 〇”二人でお酒を”の調子で、”カップでお酒を”のんだことは忘れられません。

「四大学(東北・秋田・岩手・弘前)の優勝カップ、東医体冬季綜合優勝カップで」                  (51.1.4.)

 

 

巻頭言:”北の街から”

 

 〇北の街ではもう悲しみを 暖炉で 燃やしはじめているらしい・

  ・・・  寒い友達がたずねてきたよ 遠慮はいらないから

  暖まってゆきなよ(”襟裳岬”より)

 〇ある日何かで これを読んだら 恋人 あなたは わかってくれ・  ・・・  ひとり ひとり旅に発(た)つ 

  雪の降る街へ(”冬の宿”から)

 〇雪は降る あなたはこない・・・(アダモ)

 

  そして今年は ”北の宿”である

 〇あなた 変わりはないですか 日頃寒さが つのります・・

  ・・・ あなた恋しい 北の宿

       (わが愛唱歌より 佐々木 直亮) (52.1.10.)

 

弘前だより(14)

 

 一年ご無沙汰しました。年のたつのは早いもので、私が弘前へきたのは29年ですから、もう22年、教授になって20年たちました。教室の関係者が近くお祝いをやってくれるとのこと、われながらおどろいているといったところです。

 でもいつも若い、丁度自分の子供と同じ位の学生諸君と毎日つきあっていると、こちらも若い気になっている今日この頃です。

 この一年、スキ−部と共にあゆんだ中でのトピックを日記風な句にたくしてお便りすることにしましょう。

 毎年、年があけると”送(オイ)コン”です。そして来るべき東医体への景気づけが行われるのです。50年2月20日、鍛冶町の”要”(カナメ)が会場でした。

 送られる者4名の残していった言葉。

 〇本当は 入賞するまで 出たくなし(小沢)

 〇思い出は 石にとばされた 赤倉(佐野)

 〇6年間 めいわくを かけたのではなかったか(康井)

 〇いわきのハワイで まってます(岡部)

 送る人の言葉は色々でした。

 〇スキ−より 別のことを 教わって(安藤)

 〇今年こそ ドカンと やってみたいもの(向井)

 〇スキ−うまくなったが 打撲傷(山根)

 〇すぐ上で 専3位に みえた人(加賀)

 〇国試すんだら また小さな お祝いを(管野)

 〇合宿に 差し入れくれた 先輩忘れられず(原)

 〇愛知勢から 一人さり 小沢さん(山田)

 〇野沢からはじまった東医体 優勝したいもの(橋本)

 〇スプ−ルに あくたいをつき いびられる(下山)

 〇色々教えてくださったのに 応援団(萩野)

 〇リラックスは スキ−にも 国試にも 大切と(部長)

 そして、夜の出しものは 森進一の”冬の宿”アダモの”雪は降る”などなど 楽しいものでした。

 

 3月中旬、今年の東医体は北海道の”北の峰”で開かれました。

富良野でのアルバムはこちら

 教授会をすませ、青森へ車をとばし(ストで汽車不通)、連絡船にのったのですが、

 〇ストストを気にしながら スキ−行き

 〇海こせば 春から冬に 逆戻り

 〇ミノソタ シカゴへの旅 思い出し(窓の風景から)

 すでに第1日目が終わったあとで 

 〇15キロ ワックスのきかぬが 命取り

 〇滑降は 体重のない者のまけ

 会場の北の峰は、北海道のヘソ(中心部)にあたる富良野にあり、たまねぎとじゃがいもの町でした。この町の病院に勤務していた佐藤貞雄先輩が子供さん達をつれて、たずねてくれました。

 〇仕事おえ スキ−楽しむ貞雄君

 加地先輩ご夫妻、三浦悟先輩、南田先輩きたり、楽しいものでありました。

 〇若返りますな−と加地先輩

 〇”こんなきたない部屋に” 大鰐を思い出し

 翌日

 〇三月というのに この吹雪

 〇キャプテンの根性示し 入賞し(菅野君アルペン四位)

 〇ワックスがあわず デイスタンス苦労する

 〇くやしいと 一言もらす佐々木君

  テントの中で北大の連中のしゃべっているのが耳に入った。

 〇本山先輩がこれを知ったら「ころされる」かも

  大会では なんといっても

 〇北の峰 吹雪の中に 花がさき

  (加賀さんの大回転優勝でありました)

 〇一番が 一番にはいる 大回転

 〇スポ−ツは 入賞者だけに 陽があたり

 〇四人とも メタルもらえるそうですと 安心し

  (リレ−はどうにか3位に入賞した)

 今年の北の峰は、ワ−ルドの前であったこともあり、完全に整備されていた。それも自衛隊で。

 〇カラフルの中に くさ色が巾をしめ

 閉会式もにぎやかで、富良野の市長もおどろいていた。

 〇優勝杯で ビ−ルのみ 夜はふけて          (52.1.10.)

     

巻頭言      

 

 シュプ−ル第16号がでることになった。

 東医体も来年は第20回であるが、わがスキ−部も第3回に優勝して以来、優勝はないが、それでも2位、3位といったところをつづけていることは、よろこばしいことだ。なにしろ、今や東医体への出場校は、30校をこすようになり、その中で上位をしめているのだから。

 さてそのように優勝をめざすことの出来る部であるのだが、もうそろそろ、経済的な基盤を確立すべき時ではないかと思う。

 シ−ズン近くになると、マネ−ジャ−が奉賀帳をもってあらわれる。部長として一番最初に筆をとるのだが、千円、二千円と書いていた時代は昔のこと、五千円が一万円になり、今年は二万円と書くことになった。

 わがスキ−部が多くの良き先輩に恵まれていることは幸いなことだし、今ここに、あらためて感謝の気持をのべさせて戴く。又、今の部員も、良き先輩になることであろう。

 私も学んだ大学の部に会費を送りつづけている。私にとって、それは「若さを保つための税金」であると思う。

 具体案としては、スキ−部の口座をつくって、年に一度の会費を送っていただいたらどんなものであろうか。

 そしてこのシュプ−ルが、弘前大学医学部30数年間にスキ−を共にした人達の交流の場であってほしいものだと思う。  (52.12.)

 

弘前だより(15)

 

 今年は色々なことがありました。

 医学部のことからいえば、入野田、粟田口両先生が卒業(停年退官)され、新たに松山秀一・朴沢二郎(ほうざわ・じろう:東北大)教授が誕生し、三内の後藤教授が東北大に転出され、後任に北大の武部和夫教授が来られたことです。つい先日(52.6.22.)教授会のあと、二葉会館のクラブ・ゆうじんで、セルフサ−ビスの歓迎パ−テイをやったばかりです。又近く、脳卒中研究施設のリハビリテ−ションの教授・助教授を選ぶことになりました。

 何といっても、今年のニュ−スは、スキ−部の先輩方々の結婚。おめでとうございます。

 第一に、北海道小樽の小熊士郎君(38年卒・9回生)で、2月11日札幌パ−クホテルでの披露宴には、照井先生、中村先生も参加され、実に盛大に、また楽しい会でありました。私も丁度前日と翌日に東京で会があったのですが、羽田・札幌のとんぼかえりで参上しました。札幌の粉雪でスキ−が出来なかったのは残念でしたが、多くの懐かしい人にあい、夜は夜で「ゆきぐに」で皆と一杯やりました。

 その時の様子など、おそらく色々と記事がのるでしょうから、ここでは、私の祝いの言葉をのせてお便りにかえたいと思います。

 「只今ご紹介をうけました佐々木直亮であります。考えてみますと20年前に教授になったものですから、今日の小熊士郎君にも学生と教授という関係で接触していたわけでありますが、教室での彼の思い出はあまりありません。というと彼は学業には熱心ではなかったように聞こえますが、そうではなくて、衛生学の自由研究で学校保健や、小樽での住宅衛生に関する立派なレポ−トを出していることを申しておきます。

 でも、何といっても彼の本領はスキ−でありまして、今日の会にもスキ−の仲間が沢山きておりますし、私もスキ−部長ということで出させて戴いている次第です。

 弘前大学医学部のスキ−部にとって特筆すべきことは昭和37年の東日本医科学生体育大会のスキ−部門が大鰐で開かれました時に優勝したことでありますが、その原動力となったのが小熊君であったということであります。(今日のお祝いに皆で優勝をを祝った時にとった写真を大きくしてパネルにしてお送りすることにしました)どうも東医体のスキ−はいつも北大が優勝しておりますが、弘前も優勝したことがあることをここに紹介したいと思います。(今日のお嫁さんになられる方が、そのライバルの北大出身であることは何というとりあわせでありましょうか)

 いつもきれいな代筆で手紙を戴いていたのですが、今度は彼の直筆で、小さく、今度結婚することになりました、と書いてよこした文面に、彼の気持が現れていましたが、今あらためてお祝いを申しあげたいと思います。

 実はこのような話をするより、スキ−の仲間と肩をくんで、オ−・シイ−ハイルを歌いたいところでありますが、最後に一言申しあげたいと思います。

 というのは、ヒポクラテスの話であります。

 ご承知のように、「ヒポクラテス」は医学の祖といわれている人ですが、彼の残した言葉に「人生は短く 芸術は長し」というのがあります。ゲ−テがファウストの中で書いたのが世界に広まったように思いますが、最近色々考えてみますと、「人生は長く 医術は短い」と思うようになったことを申しあげたいのです。

 ヒポクラテスが医術を体系づけた時には、その術は長いと思ったのでありましょう。全文では、「生命は短い、技術はながい、機会は去りやすい、経験はだまされやすい、判断はむずかしい」となっておりますが、最近考えてみますと、人生は長いようであります。私も脳卒中や高血圧の研究をやって参りまして、少しそのお手伝いをしてきたと考えておる者ですが、これからのお二人の人生は長いものでありましょう。一方、医術の方はといえば、極めて短い、その進歩は早い、日進月歩であります。その意味からいって、お二人して今後大いに勉強して戴きたい。そして世の中の人々の為になって戴きたいと思います。

 お二人のこれからの長い人生の幸を祈りまして、私の話を終わらせて戴きます」

 

 2番目の話は、4月9日、弘前キャスルホテルで開かれた菅野祐介・相馬涼子さんのプレ結婚披露宴です。

 札幌での本式の会の前に、弘前にいる人達への、「ごあんないじょう」で集まった会でしたが、この日の話題からいくつか拾ってお伝えしましょう。

 〇私は恋愛至上主義です。時に夫婦げんかも良いでしょう(山本名誉教授)

 〇昨年の送コンの時、彼が先輩に、国試がすんだら小さなお祝いを、といったやさしさが、彼女の心をとらえたのではなかったか(佐々木直)

 〇漬け物をつける男、勉強をやるひまのなかった男、マ−ジャンで人柄がわかる男、レポ−トをぎりぎりに間にあわした男、だが一緒に手伝ってくれた菅野君。

 〇ドウテイ保存会会長を引き継ぐことになりました(小尾重厚)

 〇彼の遠くおよばなかったス−パ−ウ−マン加賀英子さん。

 〇インタ−ビュでの話

  「どういうところにひかれたのですか」

  「あの− いいお友達がいたので」

  「キッスをしたのはいつですか」

  「え−と 記憶にございません」

  「夜おそく帰ってきたら」

  「ロック・アウトです」

 〇山本先生の「英語」のうた。美しい彼女をとられた失恋の味わった人の気持をさっしての私のテネシイ・ワルツ、もみの木、南部牛おい唄、ただいのちのかぎり、かたくいだいて、等々。

 

 今年の東医体は、盛岡の先の網張でした。麓の農家での民宿でしたが、スキ−場への足には皆苦労していました。私が弘前から乗って行ったアコ−ドが、少しは役にたったようでしたが。

網張でのアルバムはこちら

 〇宿帳に書いて わが年を知り

  (めくってみると皆20代,30代なのに、50才とは)

 〇昔なら(20年前なら)血圧測って 泊まったような宿

  (こんな農家の人達の血圧を測って歩いたことを思い出して)

 〇民宿は トイレとバスの改造から

 〇民宿の行く先を考える夜しずか

  (本家から別れて昭和20年に改造し、岩手国体の前に民宿にした)

 〇アルペンのそろいのセ−タ−三代目

 〇朝7時のバスにあわせたスケジュ−ル

 〇滑降に 安全第一と スタ−ト下げ

 〇前走がとばされ 関門八つ下げ

 〇距離競技(アルペン並の)秘密兵器出現か

  (札医がこぞって上位を占め、北大ふるわず)

 〇相沢先輩出番なし 今日の雨

  (秋田から相沢先生が来てOB大会で優勝するはずだったのに、一日雨で流れる)

 〇”ところにより大雨”実感あり 今朝の雨

 〇年一度 この時ばかり早起きし、体操し

 昭和46年の八方尾根から今年52年のアルバムが早や7冊となりました。正に部長の役目はカメラマンといったところです。鵬桜会報に「衛生学教室のアルバムから」を連載していますが、スキ−の写真はまだ出していません。

 さてスキ−の写真ということでアルバムの頁をめくってみたら、一番はじめに撮ったのは昭和31年、大鰐で国体が開かれた時のでした。天気が大変良い日で、私の小さな「サモカ」でもよく撮れていました。リフトが一本できたばかりの時で、一回のると45円だったと書いてあります。それから岩木山へ登ったとき、八甲田へ行ったとき等、思い出の写真が沢山ありました。近いうちに紹介したいと考えています。

 そうそう、昭和30年の10月に大鰐のヒュッテが出来たときの建設寄付者芳名が書いてある板札が撮っていなかったので、一つつけ加えたのが、最近のアルバムのスプ−ルのニュ−スといったところです。(52.6.25.)

 

巻頭言

 

 ”ROOTS”を、6月の12日から20日までRAB・TVでみた。

 1750年から200年、次々と展開される物語りに、夜の時間は短かかった。

 ”クンテ・キンタ”の残した言葉が、代をおって伝えられてゆく。

 現代のアメリカを理解する上での一つの資料となることだろう。 

 

 わが”SPUR”のル−ツは。

 創刊号は昭和34年3月4日発行である。そして今回17号を発刊することになった。

 いつまでもつづけてゆきたいものである。そして弘前大学医学部の一頁をうめたい。

 人は変わり、時代は変っても、スキ−を通しての気持は同じである。

 スキ−部に伝えられてきた言葉は何か。

 ”シ−ハイル”は、いつんまにか部の歌になった。 (54.2.20.)

 

弘前だより(16)

 

 まず近頃の大学の様子をお知らせしましょう。

 去る12月6日に次期学長として大池教授が、次いで1月11日新医学部長として東野教授が選ばれ、2月から新学長・新学部長で運営されることになりました。臼淵学長は元の第二病理教授としてもどられました。

 脳卒中研究施設の第三部門として新設されたリハビリテ−ションの教授には昭和34年卒5回生の福田道隆君が、また二内の教授には昭和33年卒3回生の小野寺庚午君がそれぞれ新任・昇任され、また病院の薬剤部教授には藤田昇先生がなられたということで、医学部内も次第に変わりつつあります。

 構内の駐車場もようやく線引きが行われ、うっかり駐車票を出し忘れていると、注意書がはられるといったようになりました。

 53.2.11.の川丁での橋本治久・原徹・三上泰徳・向井勝紀の四君の送コンでのスピ−チの中から、いくつかを紹介しましょう。

 〇うまい人は ころばないもんだな。

 〇くやしい思いはあきあきした。もっともっと、うまくなって、賞状・メタルをもらいたいもんだ。

 〇北医体(弘前・岩手・東北対抗)、リレ−が帰ってきたら、負けていた。

 〇三上さんとは、富良野で、しゅんれつな、あらそいをした。

 〇こんな日(卒業生を送る日)が、くるとは予想はしていたが、現実となって、ジ−ンとくるものがある(坪)

 〇向井先輩はえらかった。僕の才能を引き出してくれた。

 〇原さんとは、言葉が通じる(同じ青森なので)。

  月日のたつのは早いもので、医学部の先輩は、一種独特の近寄りがたさがあったが、近頃では、いじめたくなるような(須貝)

 〇今年?年目で、段々とうまくなってきているが、まだ急斜面では弱い。橋本さんは、おっかなくて、話せない先輩だったが、愛知県人のほこりである。三上さんとはニセコの合宿の思い出がある。向井さんは男のロマンを教えてくれた(山内)

 〇卒業してからも頑張って下さい。これから一生懸命働くことになるかと思うとかわいそう(松本)

 〇ひそかに、片思いのライバルの、橋本先輩には卒業してほしくない(八木)

 〇津軽へんたいクラブ卒業し、おめでとう(下山)

 〇今思うのは、ほんとうに、時のたつのは早いもの、一年前の自分が思い出され、弘前のこと、大鰐のこと、私のこと、忘れないでね(加賀)

 〇向井が入ってきて、毎日スキ−を折って、7本になり、東医体に持ってゆくスキ−がなくなりそうだった(伊沢)

 〇私が2外科の名選手になれたのも、スキ−部のおかげです(山本)

 〇卒業後十年、今年こそ開眼しようと思っていたら体をこわして。命あってのものだね、体を大切に、勉強もほどほどに(三田)

 〇とうとう今日がきたか。あゝなんだか、雪が遠いみたい。ひまをみて、大山でも行ってみるか(向井)

 〇実質5年間、今日で修了。もっとよい成績が出せなかったのが残念。留年して頑張ってもよいが、教授会が認めてくれないだろう。四国・松山で骨をうずめる(橋本)

 〇スキ−のうまい人をおよめにもらいたい(?)

 〇足腰は、雪が降ってからでは遅い。雪の降る前までに、8割を、後輩へ。

 

 東医体は、信州・野沢温泉スキ−場で行われ、3月30日から4月2日の春スキ−でした。

野沢でのアルバムはこちら

 〇ここだけは 別天地の スキ−場

 (下界は春、4月に入ったというのに)

 〇国体用 めぐまれた コ−スなり

 (よく整備され、こんなコ−スですべる選手がうらやましい)

 〇一千万 二千万 つづいてすべる スキ−場

 (弘前は別ですが)

 〇ジュ−スだけは 飲めました 大回転

 (ゴ−ルに無事入ったという話)

 〇まけることもある デイスタンス

 (かっての成績とくらべると)

 〇こうしてみると 本山先輩はよくやったものだと 感心し

 〇下りにも 必ず迎える 村の人

 (スキ−をもっていかなかったので、久しぶりに下りのリフトにのったのだが、村営のリフトなので)

 〇月ぎめの 当番のある 松葉の湯

 (合宿のげんたろう屋のそばにあった町の湯)

 〇郷土食(野沢菜)に 高血圧対策のむずかしさ あらためて(知る)

 〇東北の一人(杵渕)だけ 景気づけ

 〇負けるとき、疲れは一層でるものだ

 〇来年は 頑張るんだと エ−ルかけ

  (来年の東医体は、栂池(ツガイケ)だそうです) (54.2.20.)

 

巻頭言

 

 ”東京サミット”が開かれた。

 サミット(SUMMIT)は何かの略語かと思っていたら、辞書をみると”山の頂(イタダキ)”で、比喩的に最高首脳部をいうとあった。

 山の頂上は一つかと思っていたら、八甲田山のように、いくつかの頂がある場合もさすのであろう。

 学校の屋上に上がって、東の方をみると、黒石越えに八甲田の山々が白く光っている。

 

 その東京サミットに集まった首脳の中で、カ−タ−大統領夫妻の”ジョギング”(JOGGING)のスナップが私(専門家として)には目をひいた。アメリカでの流行がここまできたかと。

 昨78年の世界心臓学会が東京で開かれたとき、学会に集まった連中の中で、ホテルニュ−オ−タニの前で”ジョッギング”する姿がみられた。

 そして、学会の話題は、アメリカの心臓病の死亡率が急速に低下してきていることと”Preventive Cardiology”だった。

 ”スキ−をやったことは、一生の財産でした”といって卒業していった人がいた。そんな人はいつまでも、体をうごかすことをやめないだろう。(55.1.28.)

 

弘前だより(17)

 

 おそい梅雨あけのあと、8月の夏の日に、街にはねぷたの太鼓がひびいていますが、弘前から、この一年の便りをお送りします。

 大学の方は、大池学長の2年目に入り、将来計画のうち、歯学部などの話が出てきました。

 医学部に廃液処理施設が完成しましたが、この文を書いている3日前の8月1日、処理中爆発がおこり、公衛の高松助手が火傷で重体になったという不幸な出来事がありました。一日も早い恢復を祈っています。(残念ながら亡くなられました)

 基礎の建物のうしろに、実験動物施設ができることになり、”ウサギ小屋”も30年たって、昔話になることでしょう。

 あの大鰐の”山小屋”は健在ですが、岩木山の山荘の話は立ち消えになり、これからどうなることか。八甲田の巨大スキ−場の構想も出ていますが、10年後、20年後の姿を描くことのできる人に期待したいものです。

 病院長は泉先生から、帷子先生へ。東野医学部長から「野球をあまりやらないように」と挨拶され、それに対して「バトンを落として走りそうだ」と答えがありました。

 「46歳で教授になり、迷惑のかけぱなし」と挨拶された石川義信教授は停年退官。鯉江久昭(こいえ・ひさあき)先生が第1外科を担当することになりました。本学でははじめての京大出の方ですが、一家そろっての5月の弘前公園での桜の第一印象は極めてよかったとのこと。スキ−をやられるかは、まだ聞いていません。

 そうそう、今年は「共通元年」で、教授連総集合し、教授3人、受験者5人で、30分づつ、面接をしました。

 「初体験 双方とも 緊張し」

 「聞くことと 聞かないことをきめ 面接し」

 「伝統のある弘前大学医学部、という言葉聞く」

 昨年11月12日、シ−ズン突入コンパが行われました。丁度その日は、岩谷昭雄君の葬式の日でもありました。

 「八甲田から帰った君は いまはなく」

 「葬式の菊の香の中 コンパやり」

 「岩谷先輩 エ−ルの声におくられて」

 この日めずらしく小人数で、女性群の姿がなく、「大きいことはよいことだ」という時代の去った感がしました。

 小さい部屋で精鋭の諸君を前にして「講義への出席状況からみて もう諸君は、陸上トレ−ニングは充分すんだと思われる。諸君の活躍を期待したい」と挨拶したのをおぼえています。

 

 昭和54年2月9日(金)、川丁で「送コン」が開かれました。

 八木淳二、安藤亨、そして田沢真理君を送る会でした。

 司会(山内」「それでは乾杯を・・・あ−ビ−ルがない」

 部長「今日は新入生歓迎会のように新顔が多く、にぎやかで、盛大で。これも3人を送る気持があつまってのものと思う。卒業しても”若さを保つための税金を”お忘れなく」

 下山「やや太っちょの いもだしの姉ちゃんの田沢さんがスマ−トになって、もう卒業とは。僕だけが何故成長しないのか。努力が足りないからでしょう」

 山根「本当に月日のたつのは早いもの、来年は、私の番」

 松本「長い間本当にご苦労様でした」

 佐々木(哲)「八木さんの影響力は忘れられない。腰の低い良い先生になられるだろう」

 山内「八木さんの顔をみていると涙が出てきそう。初めてあったのは旭丘高校で、弘前をうけてみないかといわれた。入ったらスキ−をやろう。八木さんがいなかったら今の僕はない。一生世話になる。すごくやさしい方で思い出はつきない」

 東野「北医体でスキ−をなくして(八木)、みっともないからテ−プをはって(安藤)男まさり、酒、うたの田沢さん」

 須貝「今さら何をいってもはじまらない。そんなバカな後輩でした。男のやさしさ(八木)、つかみどころのない人、時に大声を出す(安藤)、この人、女なのかな!がんばりやの田沢さん」

 次々とつづく言葉。私のメモはビ−ルにぬれて、よめなくなりました。

 卒業生の言葉。

 「今日はどうも有り難う。いつもいつも送り出す方だったのに、今日一回、これっきり。安藤」

 「昨日、山内さんにあって、きてくださいといわれたときはうれしかった。先輩にはお世話になりっぱなし大分休んでしまったので。・・でも出てきてよかった。スキ−に親しめたことは、一生の財産だと思います。田沢」

 「今さら美辞麗句を並べても・・・何もいうことはない。八木」

 

 春3月11日の日曜日、ホテル・ニュ−キャスルで行われた、わがスキ−部の先輩方の結婚式について報告しておきましょう。

 デイスタンスで活躍した高橋修一君とアルペンの加賀英子さんの結婚式です。吉田教授夫妻のご媒酌で、市立病院・一内関係の方々が多かったのですが、私はスキ−部長ということでよばれたと思っています。

 この二人が、同じ時期に、クラブ活動をしたことがないのに、何故結びつくことになったのか。それはお二人に聞いてみなければなりませんが。ある日、加賀さんが、スキ−部のための寄付の奉加帳をもって、弘前市立病院にいた先輩の高橋君のもとにうかがったという説が最も有力ということでした。

 このことから、寄付にしろ、スプ−ルの原稿依頼にしろ、女性のメンバ−がうかがうことがあるとしたら、それはマネ−ジャ−が戦術を展開したことと思って下さい。

 私は、加賀さんをほめたたえる係りで、前にスプ−ルに書いた

 「開会式 お化粧をして出る 身だしなみ」

 「一年で あんなにうまくなるとは 新人賞」

 「北の峰 吹雪の中に 花が咲き」を紹介したあと

 「そわそわするのは何故でしょう」とシュプ−ル13号に彼女を頭にえがいて書いた文章をもって、お祝いの言葉にかえさせてもらいました。

 私のお祝いの品(彼女から、心こもった暖かいおくりもの、との言葉をいただきましたが)は、富良野の東医体の大回転で見事優勝した加賀さんを、皆んなが胴上げしているところをスナップしたカラ−のパネルでした。

 私の部屋にたまったトロフィ−と賞状は、医学部会館に保管するため学務に、正式に保管を依頼しました。トロフィ−3,カップ7盾4,賞状15、その中の大部分はスキ−部の先輩が勝ちとったものです。

 今年は、本当に雪のない年でした。あてにしていたニセコにもいけず、3月の栂池の東医体の応援にもいけず、来年は是非にと思いながら、筆をおくことにします。

 丁度今、デイスタンスの連中が、大鰐で合宿をすとかで、届出の用紙に部長の印をもらいに来ました。

 ねぷたがおわると もう秋風です。そして スキ−の季節がやってきます。                           (54.8.3.)

 

スプ−ル第19号によせて

 巻頭言にかえて

 

 20年もつづくと色々なことがある。それも、ほとんどおこるはずのないこともおこることを最近経験した。

 それはスプ−ルの原稿が盗難にあったことである。

 スキ−部の主将なった小田桐君らが教授室に入ってきた。

 ”去る11月4日夜、弘太構内に駐車中の私の車中より、スプ−ルの原稿が盗難され、弘前署に届け出たところ、10日に別件逮捕されていた3人組が犯人と判明しました。

 しかし、彼らはすぐ近くのゴミ箱に捨ててしまっており、3日後の清掃車によって回収されたらしいとのことでした。さっそく市役所へ電話をしてもらいましたが、市では回収するとすぐ焼却してしまうとのことで、結局原稿はあきらめるしかありませんでした。

 せっかく忙しい手をわずらわした先生方には本当に申し訳ありません”とおわびと再度の原稿の依頼であった。

 この話を聞いたとき、すぐ私は”しまった”と思った。あの時渡した原稿は、あの時にかぎって、何かの理由で、コピ−をとらなかったことを思い出した。

 コピ−があれば、すぐにでも原稿を渡せるのに。

 研究論文の原稿は勿論のこと、鵬桜会や医師会への原稿も、必ずコピ−をとって渡していたのに。

 学位論文の原稿など、必ずコピ−をとって「家と研究室に」別に置くようにと、研究生に注意したこともあった。

 ”君達も、将来、研究などの原稿を送るとき、コピ−をとることを忘れないようにね”とつけ加えた。

 2,3カ月前の夏休み、数日をつぶして書いたスプ−ルの巻頭言と弘前だよりに何を書いたか、思い出せない。同じ原稿を書くわけにはいかない。今あらためて書くことにした。

 人生には、ふと、思いがけないことがおこるものだと思う。

 私にとって、今回の出来事ではあるが、それでも千分の一に千分の一を乗じた位の確率でおこったことなので、とくに印象づけられたのである。(55.11.14.)

 (赤倉でのアルバムはこちら

スプ−ル第20号によせて

 巻頭言

 スプ−ル20号を出せるようになったことはうれしいことである。

 10号を出したとき、医学部がつづくかぎりわがスプ−ルもつづくことをいのっていると書いたのが、もうここまでくるとあとはひけない。

 毎年編集する人が変り、ご苦労なことだが、先輩の方々も、一筆送って戴きたい。

 去る56年2月22日、おおわに山荘での追コン・OB会の記録が、本号のめだまである。話も録音しておいたので、忠実に30枚おこしてみた。

 もう一つ、八方尾根での東医体で、ゆかりちゃんが優勝したことである。女子デイスタンスは、今年はオ−プンであったが、久し振りにわがスキ−部に金メタルをもたらした。

 彼女の頑張りはすばらしいものだった。     (57.1.31.)

 

スキ−部追コン・OB(56.2.22.)会の記録から

会の時の写真はこちら

 

 「まず佐々木先生から乾杯の音頭を」

 「一杯のむ前にあまり長い話もあれですから、無事に卒業される皆さんのお祝いと、久しぶりに会いましたOB会の皆さんの健康を祈って乾杯をしたいと思います・・・乾杯!」

 「今日久しぶりでスキ−をやってきまして、のどがかわいて、大変おいしいビ−ルであったと思います。

 今回卒業される佐々木哲也君、山内登君、須貝道博君、坪健司君、東野博君、砂村真琴君、無事卒業予定ということで・・・笑い・・・追コンということがメインテ−マで、今日のような会がもててうれしく思います。

 先輩の方々に会いますと、OB会といいますが、会をもったらどうかというわけで、いろいろな都合から、今日のような、場所になったわけですが、返信の葉書によりますと、こられない方があって残念ですが、これがきっかけになって、又時々今日のような会をもったらどうかと考えております。

 実はOBの方々を今日のような追コンの会におよびしたというのは、色々の物語では知っている、お名前も拝見している方々、実際にはどういう方であるか、新しい諸君はしらない。そこで実際にあって、お話をうかがうということが大切なことではないか、ということで、いろいろな方々に連絡したのですが、こちらにおられる方・・・この方は丹内正一先生です。

 お話はあとでうかがいますが、医学部の30年史をめくりますと、一番最初に、医専の時代ですが、スキ−部をつくられた方です。

 次のスプ−ルからは、一番先にお名前を入れて戴けなければならないと思いますが。

 その当時の先輩方は今日は残念ながら来ておられませんが、「神代の時代の太先輩」ということで、とくに今日ご招待したわけです。年をきかれてびっくりされると思いますが、今なお健在で、今日もお孫さん達のスキ−のコ−チをされてきた。先生のお嬢さんのご主人は医学部出身で弘前で開業している佐藤真君で、今日来ている三田君と同級ということで、そういう関係もあって、ごく身近に感じます。あとでご紹介があると思いますが、特別の体の訓練をしておられるとのこと、まねをしなければいけないと思っています。

佐々木・丹内・照井

 このスキ−部で、かって「華麗なるスキ−」という言葉がいわれたことがありました・・・下山君あたりはよくおぼえていると思いますが・・・華麗なるスキ−とは丹内先生のスキ−のことで、私などは足もとにもおよばない。こういう先生のコ−チを受ければ、とても幸せである。お孫さんもきっとうまくなると思います。

 そのお隣りが、照井先生で、前に第一解剖の教授をやっておられ、・・山鳥先生の前の教授ですが・・・現在弘前保健所長として、公衆衛生を実践されていますが、照井先生は私の前のスキ−部長です。

 今日ここに水木先輩がきていますが、あのヒュッテの入口の上のところに、白い板がかかげられて、そこにいろいろ名前が書いてあります。お金をあつめた。その大もとが照井先生ということで、その時代のスキ−部の先輩達は、皆照井先生のお世話になったということです。

 もう一つ。今年の東医体の冬の部門のプログラムをごらんになるとわかりますが、今年の印刷からはじめて、スキ−部門で弘前大学が優勝したことがのっている。一昨年までは印刷されていなかった・・第3回のとき優勝しました。ここ大鰐で優勝したのでありまして、その時カップをならべて、弘前市内でのんだときの写真を医学部30年史にのせておきました。この記録を東医体のプログラムのせてもらはないと、何かズ−ッと北大が優勝したかのようになってしまうので、昨年申し入れしたのです。

 あの時は、弘前市内を旗を立てて行進し、それがテレビに出たり、大鰐でファイヤ−を手にすべりおりてきたり、昔の物語ですが、その当時とった写真のアルバムが衛生学教室においてあります。あの時の様子を8ミリにとり、そのフイルムをもっている先輩が札幌にいましたが、これも見る機会があればよいと思っています。

 このあたりが、神代から現代史に入ってきたところですが、その辺のことをとくにお聞きしたくて、お出戴いたわけです。

 「招待」と書いたのですが、何かお心づけをお二人から戴いた相で、申しわけありませんが、有り難く頂戴し、皆さんにご報告しておきます。

 もう一つ、医学部長の東野先生もこられる予定でしたが、弘前医学会がありまして、大変いそがしく、皆様によろしくということでした。

 スプ−ルに中村正先生が前部長と書いてありますが、これは間違いで、陸上競技部の部長で、いつの日か夏は陸上、冬はスキ−ということで間違ったのでしょう。しかし顧問ということでお世話になったことはたしかです。スプ−ルのはじめにのっている「オ−シ−ハイルの歌」が実は中村先生が今おられる長崎大学の衛生学教室の歌になっていること。弘前の思い出が長崎につながっている。あちらの方へ行かれたときにはよって戴ければよいと思います。

 前おきが長くなりましたが、たくさんの先輩がこられ、新潟から本山君もきて、時間のゆるすかぎり、皆さんのお話をお聞きできればと思っています。長くなりましたが、挨拶におかえて、お話をさせて戴きました。」(56.2.22.)

 

巻頭言:スプ−ル第21号によせて

 

 スプ−ル21号は、次の時代への第一歩である。

 スキ−部誕生が昭和21年秋。スプ−ルは昭和34年3月に創刊された。

 医学部の入学試験の面接の時、伝統ある弘前大学医学部に入りたくて、という言葉が、受験生の口からでてくることがある。スキ−部は運動部の中でも伝統あるといえる。先輩の努力もあったが、次につづく人達の努力も必要である。

 「運動は何をやりますか」

 「スキ−ですか。アルペンですか、デイスタンスですか」

と先生に聞かれましたという人が入部した。

 人と人とのつながりは神秘的である。

 衛生学教室のほかに公衆衛生学教室ができ、初代教授として中村正(まさし)先生がはるばる長崎から着任した。

 岩木山、大鰐とスキ−にさそい、スキ−部の顧問をやって戴いた。

そのオ−イ中村君といわれた中村先生が、63歳という年で去る57年5月26日永眠された。

 まだこれからという時に、良き友を失ったことは悲しみにたえない。

 長崎の衛生学教室の歌というものは、オ−シイハルであるという。

 弘前から長崎へ、スプ−ルはついた。       (57.10.28.)

五日市でのアルバムじゃこちら

 

巻頭言:スプ−ル第22号によせて

 

 医学部の資料室をつくろうではないか、という話がでた。

 医学部も近く40年を迎えるので、何か事業を、というのである。

 30年史をつくったときあつめた資料を散逸させないようにとの配慮があるが、それにつけ加え、整理しておかなければならない。

 スプ−ル第1号から21号までのバックナンバ−が手元にある。

 大鰐で優勝した時の写真帳、”部長の役目はカメラマン”といわれて、とりつづけた東医体のアルバムが衛生学教室の図書室にある。

 トロフィ−、賞状は学務を通し、医学部会館へ保管を依頼した。

 医学部資料室に、わがスキ−部のスプ−ルも残しておきたいと思うのである。

次ぎはSPUR弘前だより21−36(昭和58−平成9年)

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