あなた神様を信じますか(オタク老人のひとりごと33)

 

 「神様を信じています!」という方もいるし「神父様がこうおっしゃった!」で納得される方が世の中にいることは私も認めるが、私自身は簡単にはそう思わないほうである。 でもそう自分でもそう思えたら「心」安らかに暮らせるのかなと思わないわけでもない。

 中東のニュ−スを聞いていると、「各宗派間の争い」があとを断たないように思える。そして「宗教指導者」がそれぞれいて、その方の「考え方」を信じ、同調する人々がいて、皆手を挙げて叫んでいる風景が放映されると、一寸昔ヒットラ−の前で一斉に手を掲げていたドイツの人々がいたことを思い出す。

 日本も同じようであったと思う。私が大学生のとき「南京陥落」のニュ−スが入ったとき「教室の黒板」に日の丸を書いたスナップを撮った記憶がある。

 独裁国といわれていたリビヤで、方向転換が行われたようで、石油の入札をやっていた風景が放映された。独裁者の考え方が変わったのであろうか。こんな国に今の独裁国が変わればよいのにという声も聞こえてきた。 

 近くは「オレンジ革命」があったと思っていたら、今度がその国内で分裂があったニュ−スも聞いた。内々で意見の相違があったらしい。。

 いわゆる民主主義国家では、個人の考えが尊重され、その結果を「投票」で表現すると考えられている。多数決とか場合によっては4分の3とかによって決定されるのが普通である。

 自民党の全員一致というのは、投票のとき反対の方は「自主退席」し、表面上は全員一致であったという。そのような風習がつづいてきたことは、日本の今の若い人達には受け入れられないと思う。

 「投票」については秘密が保持され、個人の自由が手続き上保障されていればという条件下であると思うのは、大学での色々な選挙の選挙管理委員などをやった経験からそう思うのである。

 前に考え方が違う人がいた場合、「話しあいで解決できないものか」と書いたことがあるが、世の中は、現実には、そうではないようで、「相手を殺す」ことが目標になっているように思えてならない。わが国でもそのような考え方があったし、まだ「殴られたら殴りかえす」という考え方があるようで、「殴られても相手を許す」考え方は一般的ではないように思われる。

 戦時中イギリスでヒットラ−暗殺計画があり、戦後それを映画化したが、チャ−チルが戦場で相手を負かすのだといって、その計画は取りやめになったと放映の中でいっていた。

 アメリカの大統領は、9.11のあと、「大量殺戮兵器をもっているかもしれない」そんな国は許すこは出来ない。だから「それを明らかにしない国には先制攻撃は許される」という理論であったのであろう。それを初めはアメリカ国民は支持した。

 かつて大量殺戮兵器の使用にサインした大統領を認める国民である。当時の状況でソ連との競争があったことも考えられるが、「国家総力戦」という考え方があり、「一億火の玉」と考えていた日本国民を相手にした国としての判断であったのであろうか。

 小泉首相は「先制攻撃」を容認したかにその責任を問う発言をされる方が代議士に中にいるようにその発言から受け止められるが、とうの本人はそのような理論ではないと受けとられる発言をしていると私には思える。「独裁だ!」「ヒツトラ−のようだ!」と発言される代議士の放映がくりかえされるが、どうかと思うのが私の感想である。

 個人個人に考え方はそれぞれであるという「原則」が私にはあり、今日の日本ではその意見を述べることがゆるされるようになったと考たいという立場である。

 それには十分な情報がその人に与えられていることが前提であると思う。

 情報が無いまま「信じる」ことが出来る人が多いし、「発言」される方が多いのが現実ではないか。

 「独立自尊」の中で育った自分としてはそう思うのである。(20060827)

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