前々から氣にかかっていた「よく学びよく遊び」のことを書いておこうと思う。
前に「勉強すること」についてわが国の「学ぶ」と欧米の「study」と比べて、少し違うのではと書いたので、主として「遊び」について考えてみたい。
小さいとき「学校から帰ってきてランドセルを玄関にほおり出し・遊びに出かけようとする子供」に「遊びにゆかないで勉強しなさい」とよくいわれる言葉がある。
わが国では「学ぶ」と「遊び」はいつも「対比」して言われているようである。
だが「遊び」の本当の意味は何であろうかと考えるのが今回のテ−マである。
辞書によると「遊び」は「遊技(play)「楽しみ」「暇つぶし」「気晴らし」「遊興」で最後に「動きの余裕」があり、「遊」には「思うことをして心を慰めること」「詩歌などを楽しむこと」「賭事や酒色にふけること」などとあった。これらはどちらかというと「人間の本性」にかかわることのように思われる。
一方昔から気にかかっていたこととは、日本が「明治維新」のあと「日清・日露戦争」に勝利をおさめたあと、福澤諭吉先生が「独立」という言葉を用いていた頃、アジヤの国々の人々の間に「東遊運動?」とかいう言葉がいわれ、欧米ではなく日本に「学べ」という言葉が生まれていたということを知ったときから「遊」という言葉の意味はどうなんだという気持ちがあったことを思い出すのである。
そのうえ先日亡くなった 白川静さんがいつだったか、「遊」の意味として「ものごとにとらわれないで自由に考えること」とか説明されていた記憶があるからなのである。
「学問は遊びや。楽しくないものは、仕事やない」と娘さんに言っていたというから、「遊」の意味をそう考えておられたと思われる。
となると「遊」の意味は本当は何なのかと考えざるをえないことになる。
「勉強」すること、「学ぶ」ことは、中国伝来の諸思想、それは「四書五経」を学ぶことであったが、それらにとらわれることなく、別に「自由」に「創造的」にものごとを考えることがあってもよいのではないか。
それを「遊び」という言葉におきかえれば、「よく学び よく遊び」の両方を生かしてゆくのが人の生きる道としては「よい」のではないかと考えるのであるが。(20070408)