戦争がおわったとき、一切の出直しだ、もう一度勉強し直さなければと思った。思っただけで具体的には何も分からなかったし、将来どうなるかとという見通しは何もなかった。ただそれだけで母校の上田先生をたよって上京し、色々話をきき、学生寮の舎監になって、「食う寝るところに住むところ」(落語寿限無の一節)を確保し、勉強を始めた話は前に書いた。
戦争がおわったあとの身の振り方は各人各様であろう。色々であった話は見たり聞いたりしてきたが、私が勉強にもどった教室(慶應義塾大学医学部衛生学公衆衛生学教室)には人があふれていた。予防医学教室を創設された草間良男先生は学部長になられ教室の研究主任は原島進先生になっていた。上田喜一先生はそこの助教授であった。
なぜ人があふれていたかはよく分からないが、殆どの人が「無給」であったと思う。「勉強して学位」(医学博士の学位:旧制)をとるために入局していたのではないかと思う。教授などの上に立つ者のテ−マで研究をして論文を書き、それが教授会に提出され認定されれば「医学博士」の学位をもらうことが出来る。それが「勉強」であった。そして次ぎの転出を考える。大抵の方々は「開業」にふみきる。今とちがって医学部を卒業すると国家試験がなかったから手続きをすれば医師免許状がもらえた。自分は基礎をずうっとやるので医師の免状に手続きをしないという先輩がいた話もあった。いわゆる基礎で学位をとっても、臨床に一寸席をおき、開業するのがおきまりの道であったようだ。戦後すぐ開業した方も多かったが、すこしたって学位を求めた。色々とちまたで「医学博士」が問題になったとき「博士号」とは「足の裏についた米粒のようなもの」と評した人がいた。「とらなくては気にかかる」というわけであった。
大学院が話題になったころ、旧制学位制度がなくなり新制の医学博士に変わるとなったとき、論文審査についての考え方が話題になった記憶がある。旧制では論文審査のきまりの文句は「新知見を加えた」とか「斯学に格段の進歩をもたらした」とかいうのがあって、「学問の蘊奥をきわめる」がきまり文句であった。新制の学位はさらに「奥の奥をきわめる」ことであるとかないとか、結局はアメリカ的な自立して学問を極めてゆく能力があるということにおちついたとは思っているが、今だに論文審査の中では過去のなごりが跡をひいているのではないかと思うこともある。大学院卒とそうでないのと就職したあと俸給のランクが違うという問題もあったが、大学院卒ではなく論文審査だけの学位も残った。
臨床にいかずいわゆる基礎で勉強をつづけてゆく人にとっては、「席(ジッツ)」が問題になる。その点「衛生学公衆衛生学」部門は戦後は右肩上がりであった。各県の衛生部長は医科出身でなければならないとのGHQの意向であったか、「衛生」の多くの先輩達が行政方面へ出て各県の衛生部長になった。また医学部にも衛生学教室のほかに公衆衛生学教室が増設され、東大・京大・慶應など多くの教室員をかかえていた教室にはそれらへの候補者の話がきた。
各大学の教養部などに「保健体育」あるいは「公衆衛生」が科目にのぼり、色々な免許に関係する必須の科目と決められたことから、その科目を講義する人を各大学短大などでは必要とした。講師の派遣についてたよるところは「医学部」の中の「衛生学」あるいは「公衆衛生学」教室であった。もっとも「医師」なら誰でもOKというわけで多くの方々が講師になられていたことも事実であった。「衛生学」「公衆衛生学」を学んだ者としては、「医師」ならだれでも出来るということには抵抗を覚えるが、認可する文部省はそうは思っていなかったらしく多くの医師免許状をもった方々がその「席」についた。といっても大学における講義は小中学校のように指導要綱があるわけではなく、各人各様の講義であるわけで、自由であったし、誰も文句はいわないしくみになっていた。然し広い目でみれば、公衆衛生についての理解が増すからそれもそれでよいことであるかとも思った。それぞれ「公衆衛生」とか「保健体育」の教科書を使ってそれなりに講義されたのではないか。
医学教育全体に問題があると考える方々によって「医学教育学会」が誕生した話もあるが、私が日本衛生学会を主催したときも「衛生学公衆衛生学教育協議会」を同時開催したことがあった。その中で問題になったことは「衛生学」の講義は「アラカルト」か「定食」かの問題があった。それも各教授にまかされた。私などはどちらかというと「アラカルト」の方で、「諸君は頭がよいからちょっと試験勉強すれば国家試験はとおるだろう、学生時代は自由に勉強したまえ、「自由研究」をやりたまえ、私は私が考えていることをしゃべる」という趣旨で講義をした。「国家試験の合格率をあげるように」「研究は二の次ぎ」と公言された理事長もいたと国立から私立へ定年後うつった某教授から聞いた記憶もある。さもありなんと思ったが、私の学生達はよく国家試験を通ってくれたと感謝している。
戦後慶應の予科の保健体育もわれわれが担当したし、原島進先生が担当されていた学習院女子短期大学の「公衆衛生・保健体育」も私に結婚後おはちがまわってきた。今の天皇が皇太子であったときでそのお后は学習院からというのがその当時の考え方であった時代であった。だから未婚の独身では講師には不適との話があったのではないかと想像するが、安部能成先生が校長であった。謝恩会が開かれたとき先生は卒業生に「早くMrsの学位をとったら」といわれた記憶がある。その他相模女子大学とか明治薬科大学にもかよったことがあった。その他労働基準法ができて医師たる衛生管理者の口がふえて私は関東電気工事株式会社へ出かけることになった。「衛生管理」のかたわら、「血圧」のことを考える機会もあったし、「安全」の報告をまとめた事もあった。労研とは別に各種事業場での環境衛生調査や研究で「教室費」をかせいだこともあった。というわけで診療所で臨床をやらなくても収入が増え「独身貴族」ともいうべき様子になった記憶がある。
そんなときに「弘前大学助教授」へとの話になったのだが、収入の面からいえば弘前へ来て半減であったと思う。大学の本部の事務官から「よく弘前へ来ましたね」といわれたこともあった。当時「衛生学」は一講座でまだ「公衆衛生」講座がない頃であったので、弘前にも「公衆衛生」がいずれはできるだろう。そのときのは候補者の一人にはなるだろうという位の考えであったが、東北の近藤正二先生が定年になられそのあとに高橋英次先生が転出されたので「衛生学」の教授候補者になる機会は思ったより早くやってきた。詳細は分からなかったが後に東大とか昭和大とかの教授になられた方々が候補にあがっていたが私が当選した。卒業後10年に満たなかったのでしばらく教授会には出席できなかった。後日教授会の資料でその票数をみたことがあった。
弘前大学で助教授から教授になった後、弘前大学も学位審査権を獲得できた。、多くの方々が「医学博士」をもとめて相談にみえた。「先生のところで勉強して学位がもらえるか」「何年位かかるか」「どの位費用がかかるか」等等。 教室の主任としては「研究費」をかせぎ集めなければならなかった。他の教室より若干多かったかと思うが、研究生にはほとんど費用の負担をかけない方針でやった。「りんご」がテ−マにあがってきたときも、業者から費用を貰って研究をやったのではない。或る程度成績があがってきたとき、青森県りんご対策協議会(名前はいろいろかわったが)若干の研究費といって持参されたことがあった。が、弘前一の料亭で関係者をよんで御馳走したら無くなってしまう位の額であった。
いくつかの農村で研究をおこなったが「give and take」で最低限の費用で行われた。九大の勝木司馬之助先生らがアメリカの研究費を獲得されて国際的に有名になった久山町研究をやられたのをみて、アメリカから研究費を貰いたいと考えたこともあって書類をとりよせたこともあった。「まずアメリカ国民のために次ぎに世界の人々ために」とあり、「審査」もあり、英語も大変であったのでやめた記憶がある。
旧制の医学博士にのりおくれない為であろうか教室員がふえた。おかげで自分の研究の一端をになっていただいて多くの論文作成のお手伝いができた。それなりに学問の進展がみられてたと思っているが、日曜も土曜もなく医学部の建物には灯がついていて、亡くなった福士襄君は「学位製造工場」だとかいっていた。あたっている言葉でもある。
亡くなった高松功先生が「学位」のことを高橋英次先生に相談したら「岩手医専出」で「学位」をとるのかといわれたとか言わなかったとかの話を聞いた記憶がある。青森での公衆衛生の始めに関わりのある先生の学位が指導教官が解剖学の照井精任教授である理由の背景にそんなことがあったのかとご両人が亡き後記憶のなかにあることである。
草間先生が戦後アメリカから医学図書の導入に努力されたときにおこったことについての記憶であるが、アメリカから来た図書を教授室にいれないで皆にみせるようにしなければならないといったことがあった。それまでは日本の教授達は文献を自分で独占していてそれを小出しにだして指導して論文を書かせているとかいないとかといった話であった。おいつけ追い越せの時代であったのだからと思うが、上にたつ者の権威を如何にたもつかがあったのだと思う。それに対してアメリカ育ちの草間先生として考えられたのだと思う。
今で言えば「情報公開」であって、教授も助教授も講師も助手もない教室運営の実行である。アメリカでは皆「first name」でよびあっていた。
私にとっては「駆け出し時代」の話であるが、教室で原島進先生が話した言葉が記憶にある。「日本の博士号は科学の発展に寄与したものに対して与えられるが、アメリカなどでは独立して研究し得る将来性のあるものに与えられることになっている。皆さんは自分で自分の問題を発展し解決してゆく態度であってほしい。教授の考え方に一致しようとするのでなくて一向さしつかえない。その方を寧ろ歓迎する。そしてその出発点はメトデイ−クであってほしい」と。
私の場合はそれをまともにうけて原島先生から戴いたテ−マ「CO」について、先生が発表しておられた論文の欠点を指摘して、自分なりにテ−マを展開して論文を書いた。
それでも論文を提出できた。主査は原島先生であったが、副査を誰をといわれたとき(申請者の意向を聞くということであったのであろう)生理の林髞先生をお願いしますと述べたらちょっと意外の顔をされた記憶があるがその理由はわからない。とにかく審査は無事すんで博士号(昭和25年6月26日教授会通過・8月28日文部省認可・9月8日授与慶應義塾)を授与された。
その中で考えたことは、「勉強する」ということは「学ぶ」「まねる」ことではなく、自ら過去にない新しい事実あるいは考え方を述べることではないかと思った。これは「津軽に学ぶ」の中ですこしふれたが、東洋で生まれた漢字の「学ぶ」「学問」ではなくて、西欧的な考え方の中で生まれ展開してきた「study」ではないかと。
辞書をみると「学ぶ」は 1 ならって行う。まねてする。また、参考にして知識などを得る。 2 教えを受ける。習う 3 学問をする。物事の理を修めきわめる。 とあった。
一方「study」の方は 1 イ勉強,勉学(_learnに比べ意識的な努力を暗示する) 語源 古フランス語より.もとはラテン語studium (studIre骨をおる,忙しくする+-ium -Y3). STUDIO, ETUDE 1 [T(慱)](…のため)勉強する,学ぶ,研究する《 for..., to do 》;(大学で)学ぶ《 at... 》;(高名な人のもとで)勉強する《 under, with... 》 for an exam [for a degree] 試験に備えて[学位をとるために]勉強をする 〜 under [with] Chomsky チョムスキーのもとで勉強する「 am 〜ing to be an engineer. エンジニアになろうと勉強している He is 〜ing at that university. 彼はその大学で学んでいる. 2 《米》よく考える,熟考[熟慮]する. study... out/study out... (1) 〈計画・方法などを〉考え出す.(2) 〈問題・なぞを〉解決する.study up on... 《米略式》…をよく調べる,十分検討する.
がくい(‥ヰ)【学位】 一定の学問について独創的な研究をした者に対し、一定の機関が審査した結果与える称号。旧制では、論文を提出し、文部大臣の認可によって大学の与える博士号。新制では、大学院で学んだ者に対して、大学が与える修士号と博士号 とあった。(20010701)