高木先生とは、私が英語の個人教授を受けたMr TAKAGI(高木友善氏)のことである。
戦後の医学はアメリカであった。出来たらアメリカへ留学をしたいと考えた。
慶應の医学部には草間良男先生がおられ、ロックフェラ−財団とコネがあったのであろう何人かの先輩が次ぎ次ぎと留学されていたので、そのうち順番が回ってくるかとも思っていた。そのためには英語を、それも英会話を勉強しなければと思った。
どんないきさつから高木先生を選んだかは記憶がはっきりしないが、本郷の東大の前の通りのちょっと入ったところにあった高木先生の下宿宅へ通った記憶がある。先生は二世の方で当時独身であったと思う。よく一緒になった方々に東大内科の講師をしておられた方とか三共勤務の薬学の先生がおられた。昭和28年頃であった。私の結婚のあとで夜遅く帰ってきて、宿題の英語の短文を繰り返していたと家内が覚えていた。
私が物心ついた頃の小学校、慶應義塾幼稚舎には星野静江先生という小柄な先生がおられ、英語の授業があった。四年からだったと思う。
授業時間中の記憶はほとんどないが、英語の歌を唱った記憶はある。
”twinkle twinkle little star how I wonder what you are up above the world so high like a diamond in the sky"
とか
”row row row your boat genntle down the stream merrily merrily merrily life is but a dream”
は70年余記憶にある歌の文句である。
中学の普通部にはミス・ウイルスという太った先生がおられて、口の中に指を入れて発音を直された記憶がある。
中学4年になった時、医学部へゆくにはドイツ語が必要ということで特別講習会があった。予科になってウンクラ−というスキ−をやっておられた先生などからドイツ語をならったが、堀英四郎先生という英語の先生からの授業は忘れられない。先生は英語圏で生活をされたことはなかったということであったが、会話は特別で、流れるような発音は忘れられない。ちょうど英会話の本をだされたあとであったか、特別の抑揚の記号のついた会話の本で、その一句一句を覚え、発音する訓練の授業であった。でも大勢はドイツ語であり、医学部専門へ進んだあともドイツ語であった。丁度ドイツリ−ドのレコ−ドと楽譜から、冬の旅など全曲覚えた記憶がある。
海軍はイギリス流であったから、英語流の言葉が多かった。
そして敗戦であった。
佐世保での戦後処理、田辺での引揚援護の仕事のあともう一度勉強し直さなければと思った。無給助手ではあったが研究の場が与えられた慶應の衛生ではCOHbの研究などの新しい知識はアメリカからで、文献があった日比谷の図書館に通い、英語の論文を書き写したりした。千駄ヶ谷にあった津田の英会話のクラスに通ったこととか、原島進先生や緒方富雄先生が出されるとかの本(キャノンのThe way of an invesigator)の下請け翻訳のアルバイトをした記憶がある。
高木先生での個人レッスンは、”Thinking in English" で 会話のやりとり、短い文章の記憶の宿題があった。
今も覚えている短い文章として
”One morning, in the great city of New York, a ragged little news boy was trudging merrily along with his bundle of papars. He stopped before an open window, where a lady sat waiting for him・・・”
が記憶にある。
また”Stick to your bush" という題の短文があった。
”The habit of sticking to my business led to my success I owe all I have to the lesson my father taught me when he said, Stick to your bush.”
”いちご摘み”の話で、あちこち飛び歩かないで、実った”bush”にぶつかったらそれを離れないで摘むことだという教訓めいた話であったが、弘前へきてからの自分の研究にあてはめて思い出すことがある文章であった。
一番のショックであったことは、 AとBとを結びつけるもの”bridge”は何か、という問題で、この(私)(Takagi)とあなた(私)を結びつけるものは何かと聞かれたとき、一瞬答えに窮した。なんとその答えは”money”であった。
昭和29年に弘前大学へという話になって、慶應からの留学は果たせなかった。
一度草間先生の世話でロクフェラ−財団の代表のマッコイ博士と会ったことがあったが、弘前大学へは手を伸ばさないとかあとで聞いた。フルブライトの試験を受けたこととかBritish Councilの方と会ったことがあったが、望みは果たせなかった。
弘前大学での在外研究の順番が回ってきたときには、日本衛生学会長であったし、一応私なりの仕事の発表をすましたあとであったので、今思うとよかったと思う。 海外での博士号はもらえなかったが、自分の研究に関心を示した海外の学者に会うことの機会に恵まれたことはよかった。文部省による在外研究ということで、自由の時間が多かった。お前は”サバチカル(休息日に相当する言葉)か”とよく聞かれた。1年間のアメリカ・ヨ−ロッパを当時の共産圏を除いて回ることができた。
ハワイに着いたときから日常の会話には不自由はしなかったが、肝心なところの ”yes or no”の答えに相手を困惑させたのではないかと思うことがある。
でもハ−バ−ドである教授から ”お前の英語の発音、特にRとLの発音は、今まできた留学生とは違って・・”と云われたことは、子どものときから習ったことが役にたったかと自信を深めたことがあった。アメリカからヨ−ロッパへ回ったとき、”お前はアメリカ人か”といわれたことがあった。アメリカ的な発音になっていたのかと思った。
戦後田辺の復員収容部での作業のとき、若い進駐軍の将校と話をしていたとき、”American”にたいして、私のは”Kings English”であったのか彼等に一目置かれた記憶がある。
それにしても”native”でない英語はなかなか身に付かない。
久米の清ちゃんをアメリカに訪ねたとき、あの英語の達者な木下良順さんが脳卒中になって英語を忘れてしまってアメリカ人の奥さんとうまくいかなくなっているという話を耳にしたが、ミネソタで英語だけで1時間も2時間もセミナ−で講演したことなど、今や夢のごとき過去の話になってしまった。
”Thinking in English”ということで、前に”翻訳の問題”に書いたことなのだけれど、最近の話題として ”奉仕の義務化”のことがある。
神戸での地震以来一般化した”ボランテイヤ”のことである。
もとの英語は”volunteer”であると思うが、その言葉は”one who enters any service, esp, military, voluntarily or his own free choice”とあった。”voluntary”は”willing, acting by choice, free”であり、日本の辞書にも”Compulsoryに対して自由意思の、自ら進んで為す(行動)”とあった。
”service”とか”奉仕”というと、基本的な宗教との関わりのある言葉になるのでここではふれないが、新聞紙上に展開されている記事をみていると、頭がおかしくなる今日この頃である(20001205)