ドクタ−・フライデ−のこと

 

 ドクタ−・フライデ−とは福島県立医科大学名誉教授・前衛生学教授星島啓一郎先生のことである。 

 そして「ドクタ−・フライデ−」とは先生が昭和61年に大学を定年退任されたときの記念事業実行委員会が出版した先生の随筆集の題である。

 この4月(平成13年)に福島で第71回日本衛生学会が開催されるのだが、先日その講演集(日本衛生学雑誌,56巻1号)が送られてきた。そのおわりの方に「賛助個人・団体・企業一覧」という記事があって、そのトップに「故星島啓一郎先生」の名前があった。「故」という字が私の目に飛び込んできた。知らなかった。とうとう君も往ったのか。

 昭和61年定年退任であるから、私と同じ年に定年になった先生である。私より数ヶ月早く、1920年(大正9年)9月5日岡山に生まれている。1944年東北帝国大学医学部卒、1951年に福島県立医科大学助教授となり前任者の宮地重嗣教授の急逝のあと衛生学講座の主任になられた。

 1944年に開校された福島県立女子医学専門学校のあと1950年に県立福島医科大学が創立されたのだが、その頃私が勉強していた慶應の衛生でもその話がされていて、某先生を推薦するとか、しないとか、推薦されたがご本人がことわったとか、どうとか、いろいろの話があったことが記憶にある。

  星島先生が福島県立医科大学教授に昇任されたのは 1955年であった。

 1965年(昭和40年)の第35回日本衛生学会をどこでやるかという中で、仙台・北海道の間の東北地方でということになったとき、当時学会の幹事をされていた北博正先生の”若い人”を推薦するという考え方があったと聞いているが、その頃若い教授であった福島と弘前が話題になり、星島教授が辞退されたと聞いたが、結果的には弘前で学会をやることになったことが思いおこされる。

 今度来た講演集の「日本衛生学会歴代会長および開催地」の一覧表をみると、昭和40年第35回の弘前はもうはるか過去の事で私より前の会長の方で生存者はおられないと読みとれる。

 そんなことで星島先生とは過去40数年、学校や経歴は違うが、同じ衛生学の畑であるので学会で何回となくあった先生であった。同じ年代であり、何となく気があった先生であった。

 昭和38年大阪で第16回日本医学会が開催されたとき、私はシンポシウム「高血圧」に出演する機会があった。この時当時はまだ値段も高かった航空機を用いて青森から大阪へ飛んだ。しかし泊まる宿は一番安い宿であった。その時たまたま先生と同宿だった。「飛行機できてこの宿で」とひやかされた記憶がある。そしてその夜「ウイスキ−1本」を二人でのみほしたのである。だから星島先生にいわせると「私は大変なのんべい」である。丁度学会の発表やなにやかやこのあと私は胃の調子が悪くなって、「胃潰瘍」の疑いが出て、弘大の第一内科で、当時まだあまり改良されていない真っ直ぐの胃のスコ−プで検査して貰った思い出と共にある先生である。

 この夜の話であったか、その後の話であったかはさだかではないが、先生が「衛生学」を講義されるようにいわれたとき、「細菌学」が中心であった先生は「衛生学」が何もわからず・・と、まず学生に「衛生学」の項目を一つづつ宿題を与えて勉強させ、それを聞いて概括衛生学がわかったと、じょうだんともとれる話を、あの大きな体、あの長いすねをおって、独特な口調で喋られたことが思い出される。

 私の記憶では先生は衛生学の中では「におい」「かおり」の衛生学をはじめられたようである。ねずみに色々の香りをかがせて、実験のかごの車をどれだけまわせるか、といったことからはじめられた話を聞かされ記憶がある。当時は全く、また現在でもこの方面の仕事をやる研究者はほとんどいなかったので、ペイパ−を得意な英語で発表したら、この点は私も同じ経験をしたが、今と違って世界中のその方面の学者からの文通ができて、国際的に知人もでき、研究会で活躍されていたと思われる。だから国内より国外で有名であるようだ。

 先生の書かれた随筆は国外での活躍を偲ばせるものが多いが、「ドクタ−・フライデ−」の由来も書いてあった。

 アメリカで当時盛んになりつつあった「Bio-engineering」なる新分野の方面の専門家のところへ訪問したときのことが書かれていた。

 所内の食堂で、「例によってワイワイ、ガヤガヤとしゃべりながらの会食である」「どうも私の方に向かって(サンデイ−)と話しかけられたように思ったので、他の話に夢中になっていた私は、そちらを向いて(No, Togay is Friday)と。ワッ−といっせいに笑いがおこった。秘書嬢がデザ−トにIcecream Sundae(Sunday)は如何かと聞いていたのに、今日は日曜日ではなく金曜日だと返事したわけだ。その後2年たって近くまで行く機会があったので電話でだけでも呼び出そうとした所、私の名前をきいた彼の秘書嬢(Yes Sir!! Dr.Friday)」と。

 退任の時の随筆集の題に「ドクタ−・フライデ−」をつけられた訳がわかった。

 随筆集には数々の話題が書かれていて、今読み直してみてもいずれも興味がある話が先生独特な筆で書かれているが、その内の一つを紹介しておこう。何故なら過去から現在までの日本にもあてはめてみても良い話題だからである。

 「ガ−ナのこと」の章の「予算の話」

「それは1967年だったか、医療協力の調査団の一員としてガ−ナに行ったときである」の中に書かれていたことである。

 「大統領が革命でおわれ・・・銃殺されてしまった」「その後やってきたガ−ナ大学の友人(惜しい事をした。あれだけ清廉な人は得難いのに)と嘆いていた。相当ためこんだとの風聞があるのではないかと聞いた。(あの人は国家予算の三分の一位しかポケットしなかった)と。何、三分の一もかと問い直すと、何でも彼の見解によれば三分の一は清廉で、二分の一をこすと悪い奴だと思うとの事。いくらガ−ナが貧乏と言っても100億円位の予算はたてる。その三分の一とはおどろいたが、彼にあの単なる「予」定の計「算」かときくと(違う、本当の国庫のお金の事だ)と。本当の「予算」の三分の一とは恐れ入った。その頃日本では田中総理の5億円がさわがれていた」

 その先生が「黒い環」という小説を「門田さぶろう」というペンネ−ムで書かれたとは本を戴くまでまで知らなかった。

 「私の父は田舎の開業医でした。父は西洋の言葉と思いますが(心の病を癒すのが牧師で、体の病を治すのが医者である。この二つは限りなく神に近い職業である)」と書きはじめていたあとがきに「たまたま最近号の(文春)にもでておりました大阪地検特捜部が摘発した福島医大汚職の記事を読んでいるうちうに大変なショックを受けました」「医者という聖職者を育て、また医学研究の中心になっている医科大学は聖域中の聖域と信じておりました。ところがこの聖域で、高い権威と侵し難い権力を持つ祭司たち−−教授たちの一部が思いかけぬ汚い行為をしているのを知ったからでした」「私の願いはこのような忌まわしい事の今後起こらないようにと祈るばかりです」と。「この小説に登場する人物、大学、病院、団体名、事件等は、すべてフィクションであり、実在するものとは関係ありません」との断り書きはあるものの、これを書かせた先生の真情は何であったのであろうか。

 「よいニオイ・わるいニオイ」の章も面白かった。

 先生が環境庁の悪臭公害専門委員会をされていた頃の話題である。工場からの悪臭の被害、悪臭の生体影響に直接的なデ−タはとぼしい時代、「パン焼き工場よりのニオイは、しばらくかがされる分には、香ばしいよいニオイである」が「重ねてパン工場からの(悪臭)について強く主張された」という問答が書かれていた。丁度私がアメリカでのマ−ケットで見聞きし「パンを完全包装したあと、香ばしいパンのニオイをつけて販売している」という話と重なって、記憶に残った文章であった。

衛生学の巾の広さ、もちやはもちやという専門的な学問の深さ、またそれを探求する人の貴重さを感じたのであった。大学の衛生学の講義のことに話がおよんで、先生も同意してくれた「すくなくとも東北ブロック内でも、各教授の得意なところを講義しあったらどんなものか」と案をだしてはみたものの、当時の文部省の官僚の考え方は「衛生学の教授は全部講義できる方を教授にしたのである」といった考え方であったようで、このアイデイヤは実現されなかった思い出がある。

 昭和54年7月青森市で第28回東北公衆衛生学会が開催されたとき先生をスナップしたことがある。会場は「禁煙」であった。そのとき会場から出てきた先生がたばこを取り出し口にくわえた時であった。

 「記録にちょっと」「ひで−ことを」とわらって答えた先生の顔は、以前読んだ血圧の研究では有名なピッカリング大先生が「塩を少なくすることは少しは寿命を延ばすかもしれないが、私の幸福を奪わないでくれ」とかいった記憶とむすびついたショットであった。

 先生はその後喉頭癌を宣告され、手術をされ、人工声帯で定年まで講義をつづけられ、海外にも行かれたと聞いていた。

 福島医大の衛生学教室のあゆみの中で

「更に第三の方向として、既にchemical sensesの研究にかかる当初より「快、不快」という衛生学の重要で、且残された研究分野に手をつけたという漠然たる意識はだんだん形を整えて、1983年(昭和58年)以来の国際学会で具体的に”Amenity and Metabolism”のtitleのもとで発表、少なくとも数年他の人々を離して、世界の先端を独走しつつある」と書かれた先生を失ったことは何といっても残念なことである。(20010420)

弘前市医師会報,278,49−51,平成13.8.15.

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