北博正先生のこと

 

 北博正(きた・ひろまさ)先生が平成11年7月19日に肺炎のため病院で89歳で亡くなったことを新聞で知った。インタ−ネット(朝日・読売)のおくやみ・訃報にも出ていた。葬儀が教会でとあった。先生の宗教のことは全く知らなかった。

 丁度辻達彦先生から送られて来た「余生語録第5」のしおりに「明22日は北博正先生の葬です あヽ」とあった。北先生の誕生日は1910.3.31.であり、辻先生は1916.3.24.であるが、辻先生にも特別の思いがあるのだろう。

 私の生まれは1921.1.17.なので、北先生は「大先輩」である。

 大先輩といえば、北先生が東京医科歯科大の衛生学の試験のとき、「ペッテンコ−フェルについて記せ」という題を出したら、ある学生が「北先生の大先輩である」と答えを書いので先生は合格点をつけないわけにはいかないだろう、と「衛生をめぐる人々」に書いたことがあった。

 先生が昭和43年に日本衛生学会を開催された時の特別講演は「ペッテンコ−フェルの再発見」(日衛誌,23,27-30,1968.)であった。

 その中で炭酸ガスの測定法に名前が記憶される衛生学の常識とは別に、当時すでに疫学的な多要因疾病発生論で健康問題を考察していることを紹介してはいるが、東大医学部衛生学教室初代の教授の緒方正規がペッテンコ−フェルの教えを受けたこととか、北先生もその流れをくむ東大の衛生の出身だから、特別な意識があったのであろう。

 東京医科歯科大の学部長に若くなられ、全国の医学部長会議に出たとき、「代理の方はこちらえ」といわれた話はよく聞かされた。弘前を含めての新設国立の六大学の医学部が色々のことで旧帝大と「差別」をうけていたことを感じたらしく、「新六会」をつくり、学会のときにはいつも集まりをもっていた。旧帝大と新六の差はまず先生の頭にきたことではなかったか。

 高橋英次先生が弘前におられた頃「新六会」の話を聞いていたが、高橋先生が仙台に移られてそのあと私が教授になったので、私もその「新六会」に参加することになり、それ以来北先生ら各先生と知り合うことになった。

 最初のテ−マは学位審査権をどう持つかで、それを目標に「お互いに夜を徹して勉強したもんだ」「小松君などはノ−トをとって」とはよく聞かされるセリフであった。各大学の情報の交換、そして学術会議への代表などがテ−マであった。それにしても40年もよくつづいたものだと思う。

 この辺のいきさつは「小松教授のスナップ」「新衛会の記録」「新衛会」に書いた。

 そのようなことがあったので、北先生の退官記念会が東京の椿山荘で開かれたとき「新衛会の ガキ大将に ささげ銃(ツツ)」の句を差し上げたことを思い出す。

 北先生は陸軍であり、新六新八などの懇親会には、陸軍・海軍出身いりまじり、にぎやかであった。ブリキで作った「ノ−サンキュウ金鵄勲章」を作り、辻先生の作だったか感状をさしあげたり、一流の「諧謔」(かいぎやく)があった。

 丁度日本衛生学会の幹事長を原島進先生がやっておられたときに北先生も幹事で、衛生学会の「若返り」を考えておられたらしく、京都での会は藤原元典先生に、そのあと東北でということで、福島の星島啓先生と私が次期学会長候補にあがったと聞いた。結果的には星島先生が辞退され、私に学会長のおはちが回ってきた。そんなことがあって私は随分若く学会長になったと思うが、北先生にひっぱり回された思い出がある。

 ビキニでの放射能汚染の話が世をさわがしてまぐろが安くなったとき、幹事会の帰途、すしやで「とろ」をたくさんごちそうになったことがあった。

 いつだったか北先生が次々と学会長を引き受けられ、引き受けさせられた時があった。、高橋英次先生が北先生に「次ぎ次ぎと学会を」と北先生が学会のボスになろうとしているかにとれることを喋ったとき、北先生はめずらしく怒ったことがあった。

 「高橋君は真面目だから。真面目な先生がそんなことをいうことに腹が立つのだ」と返事されたことがあった。両先生亡き今、両先生の人柄を思い出すエピソ−ドとして私の記憶にある。

 先生はいわゆるボスというのではなかった。研究器具の考案など、新しい考案・企画をされるのがお得意であった。全国の医育機関名簿も先生の企画ではなかったか。学会誌の印刷も新企画を出された。今ならごく普通だが、原稿をそのまま印刷するという方式で、「ミス」はすべて著者責任だといっていた。

 私が教授になったすぐあと、昭和32年、箱根の日本衛生学会のあと北海道で産衛の学会が開かれる途中に新六から新八になった時、教授連にこの弘前によって戴いたことがあった。

 弘前駅前から「馬車」で公園へ案内した。

 そのあと医学部講堂で各教授に得意なところを学生の為に喋ってもらったことがあった。

 佐藤医学部長の歓迎の言葉のあと、挨拶に立たれた先生は「はじめの挨拶は簡単だから」といわれた。

 この人達がその後の日本の衛生公衆衛生をリ−ドしていったのだから、誰が何を喋ったか、大変貴重なものだと思う。教室で初めてテ−プレコ−ダを買い、録音した。テ−プは紙の磁気テ−プであった。教室のテ−プ記録のはしりであった。

 そのあと「狼の森保健館」「温湯温泉」「十和田湖遊覧」「酸ヶ湯温泉」と歩いた。

踊る人村江・北・佐々木(昭32.7.13.酸ヶ湯温泉にて)

 菅原和夫教授が北先生からの教えも受けたこともあって、最近にいたるまで先生の様子は大体のことは聞いていた。「お元気だそうです」「でも面会はおことわりになっていますよ」ということであった。先生らしいと思った。

 今年平成11年千葉での日本衛生学会のとき、「新衛会今後どうするか」が議題にされ、現役の教授の投票11対10で解散が決まったと聞いた。

 新六・新八の初代教授の大半が亡くなった今、一つの時代が終わったのであろう。(990819)

資料

       感状          東京医科歯科大学 北博正

 右者 新六新八会の創設運営にあたり終始先頭にたちて指揮にあたるとともにその冷静慎重なる企画はよく旧帝大グル−プの心胆を寒からしめたり 爾来新十一・新十三と集団の強化育成にあたり 時に自ら率先して観兵式を挙行し 全軍の志気を鼓舞し衛生・公衆衛生学に従事するものをして益々斯道に献身せしむるの気概をよく喚起し 邦家の為偉大なる寄与をなせり 右は人間愛・医道に発する本会の精華にして その功績抜群範とするにたると認む 依って茲に感状とともにノ−サンキュウキンシ勲章を授与する

       昭和四十九年四月四日 新十三会日本列島総指揮官 村江通之

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