戦争が終わり、復員収容の仕事が終わったとき、一人身でもあった気軽さから、もう一度勉強し直そうと考えた。
両親は東京の家を売って篠山へ疎開したままになっていたし、兄は中国の戦線から帰還していなかった。
学生時代からお世話になっていた慶應義塾大学医学部の予防医学教室(戦後衛生学公衆衛生学教室と名称を変えていたが)の上田喜一先生をたよった。
東京は遅配遅配つづきで食糧事情も悪く、東京転入もままならなかった。厚生省の引揚援護局の仕事をしていたので、そのことをなんとか理由をつけて転入の許可をもらった記憶がある。
家は東京にはなかったので、私が生まれた場所の三田綱町で焼け残った友人(千浦一郎君)の大きな家の一部屋にとりあえず下宿させてもらった。
ちょうど慶大医学部は三鷹の旧中島飛行機の工場あとに疎開していて、すぐそばに学生寮があった。そこの学生寮の舎監の口があって、食堂もあるしというわけでそこに移った。食堂があるといっても、遅配状態であったので、一食いも一つということもあった。リックをかついで近くの農家へ買い出しにいったこともあった。それでも教室は近いしここなら勉強できると思った。 職員寮もあり原島進先生ご一家も住んでおられた。
終戦のときは海軍軍医の委託学生あがりの「ほんちゃん」であったので、予備役編入され、厚生省の引揚援護局勤務(田辺検疫所)になったのだが、「退職金」を沢山、それも新しいお札で何枚ももらった。退職にともなう「賞与」とかなんとか色々理由をつけてなにか「ごっそり」もらった記憶があるのだが、それがすぐ「封鎖」になった。
それでも生活をきりつめれば、数年は給料がなくても勉強していけるのではないかと考えたのである。なにしろ「勉強をする」といっても「無給の助手」であったから。
ところがすぐ「インフレ」になった。予定していた生活費は1年分が1カ月分となり。たちまち手持ちの金はそこをついた。
勉強第一と考えていたのであまり教室から出て稼ぎたくはなかったのだが、三鷹の寮の近くの「診療所」を手伝うことによってすこし手当をもらって食いつないだ。そこの診療所の大家さんが後に皇太子殿下の教育に関係した学習院の児玉幸多先生であった記憶がある。
そんなとき教室の倉庫でさがしものをしていたら、「草苑」と題する小冊子が一号と二号とあった。
それは慶大医学部に予防医学教室が誕生して、教室の開設の披露会の記録などがあった。
この中に草間良男先生の言葉として
「豫防醫学は、醫学の新生面であり、新らしい血でもある。教室は醫学の新領域を開拓する生気に満ちた學徒に依って益々発展し、自他共に斯界の覇者を以て任じている観がある」
と述べられていた。
それは「わが駆け足時代のこと」であったが、慶應の予防医学教室の先輩の方々が、色々と文章を寄せていた。
教室で「勉強」するということはどういうことなのか。そして「学問」とは、「研究」とは、「論文」とは、「学会」とはと考えるきっかけになったと思う。(20010701)