「先生の家は士族なのですね」と言われた方がいた。
「衛生の旅」を差し上げた方だったが、そのお礼のときに言われた言葉だった。
本をよく読んで下さったものだと思った。なぜなら衛生の旅の中に一カ所しかその記載がないのだから。
「父のこと」の中で「明治42年徴兵の際の「深川区小松町七、士族和亮長男佐々木哲亮:徴集免除」の小さい一枚の紙がある」と書いた。
文面に「本郷聯隊區徴兵署ニ於イテ頭書ノ通リ終決處分ノ上第二國民兵役ニ編入相成候條此旨通達ス:東京市深川区長」「本書ハ年齢満四十歳迄保存スルモノトス」とあった。祖父が口を利いたのではないと思うが、長男それも男一人だったから徴集免除になったのだと聞いた」と書いた。
学生時代品川御殿山にあった小泉信三先生のお宅で月1回開かれた木曜会に伺ったときだったか、丁度中国からの留学生がきている時だったか、毛利元就の三本の矢の話題が出たときだったか、「士族」について話題がでた記憶がある。
私自身についていえば、海軍軍医を志願したときの履歴書に一回「士族」と書いたことがある。その時わが家は「士族」なのだという認識をもった。
採用前に特高か何かが身元を調べたとかうわさがあった。
海軍軍医になったあと佐世保で先輩の軍医がレス(海軍用語で料理屋)の女の子と仲良くなって結婚を申し出たが許されなかったという話があった。
何しろ便所も士官と下士官兵とは別で、躾(しつけ:これは日本語)教育のしからしむることだった。手元に昭和18年9月躾要綱(海軍見習尉官教育部)があるが、「躾ハ形カラ入ルモノデアルカラ」と服装容儀から十一章にわたって事細かく述べられているが、資料としては貴重なものだと思う。例えば後ろから呼ばれてもふりむいてはいけないといったように、目標は士官と下士官兵との区別は、全ては戦闘の命令がよく伝えられるようにとの目標に向かってのものであったと理解される。上官の命令はすべて「朕が命を承る義なりと心得よ」との「軍人勅諭」にそったものであった。それが当時の「憲法」における軍隊の実践の中の躾教育であったと思い出される。それをびっしりたたきこまれたのである。
始めての赴任地の鹿児島鹿屋の近くの串良航空隊に着任したとき、型どおり挨拶したら「司令」からほめられた記憶がある。私のような24歳の軍医中尉にも「従兵」がついた。箸より重たいものは自分でもつことはなかったし、風呂で背中をながされたときははずかしかった思い出がある。
「士農工商」とは「武士と農民と職人と商人。江戸時代の封建社会を形づくる階級を当時の階級観念によって順位づけたもの。四民。」 とあったが、その名残がつい50年前まであったのである。
明治維新以後の「士族」の身の振り方は大変なものであったのではなかったか。
青森でのりんご産業の歴史をみると「士族」との関わりが考えられる。久藤達郎先生の「林檎事始」の物語はその一ペ−ジを書かれたものと見た。
小さい時、近所の家の友達が家の手伝いをするといつもお小遣いをもらっていたのに、わが家ではそんなことはなかったことが記憶にある。堺の商人の、大阪の人の日常の挨拶に「もうかりまっか」というのがあると聞いたことがあるが、何か金銭の話をさげすむ気風があった。「武士はくわねど高楊枝」といった家風があった。実際にはなんにも財産といわれるものはないのに、気位だけは高かった気分があった。これも「士族」の家のしからしめることか。
小学校は慶應義塾の幼稚舎であるが、同級生とか回りの者について今思うと、明治維新以後実業界で名を為した創業者の孫くらいの人達であった気がする。日本経済新聞などで創業者のことを特集連載している方の名前が割と身近に感じられるのはそのせいかと思ったりすることがある。当時としては小学校なのに大学なみの高額の授業料を払って教育してくれた両親に感謝するほかない。子供のときにはそんなことは考えたことはなかったけれど。
今話題の田中真紀子外務大臣の就任後のインタ−ビュ−のときだったか、「noblesse oblige」と発言していたことが記憶にある。
もとはフランス語であり、「高い身分に伴う精神的義務」を意味する言葉である。 田中外相がそのような気構えをもっていると感心した。
「noble」は「地位・身分・階級の高い、高貴の、貴族・華族の、高潔な、高尚な、気高い、堂々とした、威厳のある、優秀な、上等の」という意味があり、「obligation」は「・・・に対する・・・する(社会的・法律的・道徳的な)義務、拘束、責任」で「duty」と同類であるとあった。
父角栄元総理は百姓?から上り詰めた方で「今太閤」といわれているが、その父から「ジャジャ馬」と言われた彼女の育ちはよく知らないが、高等学校のときアメリカへ単身留学したことが、そんな気構えをもたせたのかと想像した。
それにしても「noblesse oblige」は「貴族」とか「士族」とか封建社会に形作られた階級の中の気構えであったのであったのであろう。「サムライ」とか「ブシドウ」が映画のタイトルになることもあるし、時代物のドラマのテ−マにはそのような階級物語が随所に出現する。
明治32年(1899年)に新渡戸稲造が英語で「BUSHIDO(武士道)」を書いた直接のきっかけは「妻(のメリ−)が、現代の日本であまねく行われている、思想や習慣について(それはどのような理由で行われているのか)、しばしば私に質問したことによるのである」「そして、わが国の封建制度および武士道とは何であるか、ということを理解しなくては、現在の日本の道徳観念は、結局、封印された秘本のようになってしまうと思ったのである」と、日本において形づくられた心構えをのべ、東西の架け橋になったといわれる。
「私の為めに門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と書いた福沢諭吉先生が慶應義塾を創設されたとき「気品の源泉知徳の模範ならん・・」と義塾を位置づけたが、「カラクトルの意味にして」という「気品」はそれぞれの社会で形作られるものであろう。封建社会に生まれ育った先生でありながら、西欧の文化・文明ににふれたことが、義塾を創られたのであろう。
外務省の機密費の問題から、ノンキャリヤの行動が云々されている。
海軍でも兵からの出身者は最高特務大尉か少佐までであった。日本の官僚にもそのようなしきたりがあるとうかがわれるがが、しかしキャリヤといわれる人までの行動が批判されている。どうしたものかと思うことがある。
私は慶應義塾で教育を受けたが、海軍軍医になり、弘前大学教官として人生をおくった。考えてみると「親方日の丸」の生活であった。それが自分にはあった生活だったと思わないこともない。しかし「医師」の教育が本務であった。その「医師」も昔は「奴隷」であった。「医学」とか「医療」を考えると、これからどうなってゆくのであろうかた考えるのである。(20010729)