りんご覚書(その6)

 

 「林檎事始」は劇の題名である。生前ちょっとお目にかかったことのある久藤達郎先生作による劇である。先日平成11年10月23日弘前市民会館で開かれた「劇団雪国第52回定期公演」「久藤達郎・堀内泰雄・竹谷育郎追悼公演」で千葉寿夫演出であった。千葉先生は「明治の小学校」の作者である。私は昼の部で観劇した。

 「時は明治初年、所は北奥弘前。津軽藩の上士雪田直喬は、いまだに頭にちょんまげを結い、武士の誇りを捨てずに生きている剛直な侍である」で始まるこの劇は、「東奥義塾生」が登場し、「ジョン・イング」が登場し、背景に「奥羽越列藩同盟」があって展開する。そして武士からりんご作りの農民になり、一方東奥義塾で学んだ青年はアメリカへ留学するという話を工藤先生はよく作られたと思う。

 昭和29年に私が弘前へきたてのころ、歯科医院を開業されて学校保健で存じあげていた長内和夫先生が劇団雪国を主宰されていた。そして弘前中央高校講堂であったか「東風の歌」を見たことを思い出す。「ヤマセがクルジャ−」のセリフはまだ記憶にある言葉である。

 その雪国として「林檎事始」は今までに3回公演しているようだが、私は平成2年弘前文化センタ−での劇団雪国創立40周年記念公演でもみている。

 「りんごと健康」を書いたとき、りんごの名称についてちょっと考察したことがあった。 

 「林檎という文字も禽(とり)が集まるという木、だから読みは(リンキン)で、中国からの渡来であった」「本朝食鑑によると、平安時代初期の倭名抄に林檎(りうこう)を利宇吉宇(りうごう)と訓(よ)み、近代(ちかごろ)は利牟古(りむご)といっていたという」「青森県の津軽地方でも昔から小さい(和りんご)が、りんご(こりんご-林檎)と呼ばれたいた。そして明治8年に西洋から渡来した洋種のものを(おおりんご)、苹果(へいか)と呼ぶようになった」「明治8年、内務省勧業寮から試植を依頼された配布苗の移植に始まり、明治維新の後、津軽藩士族たちの努力が今日の青森県のりんご産業を生んだものと考えられよう。やがて和りんごは忘れられ、洋種の苹果の生産が増し、りんごと呼ばれるようになった」と文献をみてまとめたのだが、そうなると「苹果事始」が歴史的には正しかろうが、それでは題名にはならないのだろ。

 今度の劇の最後にアメリカへ出発する息子を送る時に主人公が声高らかにいうセリフが印象に残った。

 「男子志を立て郷関を出づ、人生到る所に青山(セイザン)あり」と。

 これをイング先生に訳して伝える場面があった。 「ホ−プフル・グリ−ンヒル」と。

 小さいときから東京の「青山墓地」は頭にあった。毎年9月1日に祖父・祖母のお墓参りに父に連れていかれた思い出である。

 しかしこの「アオヤマ」が「セイザン」になったとき、それは「人生到る所に墓場があるのだ」が蘇軾詩「是処青山可埋骨」の本当の意味だと知ったのはごく最近のことであった。青年を送る言葉として「墓場」はふさわしくないし、その意味がわかるのはこの年になってからのことであろう。

 青年を送る言葉としては「ホ−プフル・グリ−ンヒル」と云わせた方が、芝居の演出としてはよかったのであろう。

 

 昭和61年3月弘前大学を停年退官したとき、これから先「りんご健康科学研究所」のようなものを育ててみたい、私はその「種」をもっているという主旨の挨拶状を配ったことがあった。

 あの研究所はどうなったかと思っている方がいると思われるのでそのことを書いておく。

 弘前大学のあと東北女子大学の教授になったとき「衛生学」は講義しますが、「健康科学」を売り込んだ話は前に書いた。

 そのときの開設理由として次ぎの文面を考えた。

 「健康科学とは、人間生活の基礎としての人間を生命の誕生から死に至る過程としてとらえ、それらの健康にかかわる原理を探求していく学問の範囲と考える。その範囲は医学のみならず広く学際的な理解が必要と考えられ、これを健康科学にまとめ上げることは、世界また日本人の健康生活実現のために必要なことと考える。従って東北女子大学の児童学科また家政学科における科目として新設される必要があると考える」であった。文部省は理解を示し、大学における単位として認められた。だが実際にはその後8年間講義だけで、研究らしいものは女子大では出来なかった。

 「りんご健康科学研究所」という名称を考えたとき、「名称」の独占ができるかどうか考えたことがあった。自分だけで考えてもどうにもならないので、そこは専門家はどう考えるかということで、友人の弁護士に相談した。勿論1時間5千円の相談料を払って。その時「りんご健康科学研究所殿」とある受け取りは今となると記念品である。

 その回答の詳細は省くが、弘前市内の2銀行に「口座」を作った。寄付を受けられるように。 英語の名前も考えた。「Apple Research Institute for Science of Health 」「ARISH」である。「ロゴ」マ−クも考えてみたが、今思えば楽しい思い出である。

 その時の構想は次ぎのようなものであった。

 1)人間の健康について科学的根拠をもつ研究、とくにりんごとの関連について研究を行うことを目的とする。

 2)この目的にあった研究を行うための基金として寄付を受けられるものとする。

 3)この目的にあった次ぎの事業に対して基金を使用できるものとする。

  1)健康に関する資料、とくにりんごと健康に関する資料の収集、保管

  2)この目的にあった研究の助成

  3)研究成果の記録、出版

  4)研究所運営費(運営委員会その他の人件費)

  5)その他目的にあった事業

 4)研究所の責任者として所長をおく。(発足時は佐々木直亮とし、無給とする)

 5)研究所運営のために顧問(無給とする)をおき、所長と顧問から構成される運営委   員会によって研究所を運営する。

 6)資料の利用は別に定める。

 7)収集した資料は研究所解散時には、公の機関、例えば弘前大学医学部図書館に寄贈   する。

 8)事務所は発足時次ぎにおく。

  036 弘前市城南2-14-5 佐々木直亮(電話0172-32-7809)

                       (作成1985.10.6.)である。

 さしあたって発足当初、私の「退職金」の一部をあてた。バブルのはじける前であったので、その基金の「果実」は少しは足しになるかとも考えた。収入を得る事業をとも考えた。そうすれば他人に手当も出せるが、とも考えたが、実際にはそうはいかなかった。

 大学から俸給をもらって生活してきた身に、財産ができるわけはない。退職のときまとまったお金をどうするか、借金はなかったからどう使うかが問題であった。(変動の傾向をみて、上がる株に手を打つ)と誰でも考えそうなことをコンピュ−タのプログラムをつくってと思ったこともあったが、そのお金をどう使うかのほうが本筋だと考えて深入りしなかった。翌年アメリカで「ブラック・マンデ−」が起こった。

 「衛生の旅Part5, p100)」に「りんご健康科学研究所とかいって、なんにもしていませんね」といわれ「いそがしくて・・・」「あれは種をもっているだけです」「それでも私なりに仕事がしているつもりです・・・・」と書いたように、それからあと数年かかって「りんごと健康」「食塩と健康」そして「解説現代健康句」を書き上げた。それまでやった仕事「学術論文」とは別に、一般の方々に解るように書いて出版することができた。これらの本の著者紹介に「りんご健康科学研究所長」とあるのはそんなわけである。(991105apple6)

(弘前市医師会報,269,75−76,平成12.2.15.)

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