仲人物語 

 

教授になるということ」を書いたが、教授になると教室員から「仲人」をたのまれることがある。社会的な役目の一つであろう。

かくいう私も慶應義塾大学医学部の助手で、少し遅れた結婚を考えたとき、当時上司であった教授(原島進先生)に仲人をお願いした。

上司は親であり、親は子のためになることは考えるものだという、上司にお願いするのが普通と考えた。

卒業後経済的には独立していた自分としては、「私達結婚しました」というのもあり、結婚式などと考えたこともあったが、両親や相手のことも考えて、当時の常識に従って二人してお願いにあがった。

お願いしたのだからお礼も当然だと思うが、お礼のお金を差し上げた記憶がない。父所蔵の骨董品をあげたらということで式のあと二人で届けにあがった。常識に従ったと云いながら世間の常識がなかった。心よく面倒なことを引き受けて下さったものだと今思う。

兄の結婚のこともあったが、会場も同じ大学に近い明治記念館に予約しに二人で行った。式披露宴など親がかりではなく、自分のサイフのこともあって、少人数のお茶の会にした。モ−ニングは当日借りた。

記念の写真は当時有名であった東条が式場に入っていたことも記憶にある。

 

弘前大学の教授になったあと、昭和34年4月、助手になった三橋禎祥君が結婚するので、仲人をと頼まれた。私としては年も若く経験もなかったが、家内も承諾したのでお引き受けした。お嫁さんの家が大館で、その家から送り出す式にも伺った。大館一の料理屋であった記憶がある。弘前でも披露宴をやった。

三橋君の仕事のことは「りんご覚書」(その3)に書いたように、彼が前に勤務していた診療所の地域で、毎日1か月間家庭訪問して血圧を測定し、初め1週間は対照期間とし、そのあと10日間2群に分けて、一方にりんごを食べてもらい、そのあとまた1週間血圧を測定するという。その間毎日蓄尿するという。そして前1週間の各個人の血圧を基準として、その間の血圧や尿Na、K排泄量をみるという、統計的に対応のある時系列の比較という当時としては最先端をいっていたと思う方法で検討した思い出がある。「りんごを食べて血圧が下がった」という人間についての短期間ではあるが、今は二度とできない観察ができた。これも彼の真面目な性格によってできた研究であったと今思う。

その時の蓄尿のNa、Kを分析したのが助手の福士襄君で、昭和34年4月、私が仲人をした2番目のカップルである。神前結婚ということで、そのあと西堀のそばにあった料理屋での披露宴であった。

両君亡き今、いくつかのスナップと共に両君を偲びたい。

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