「白い巨塔」が話題になっていたころ、TVのドラマをみていたら、「財前助教授」ふんする役者(若くして死んだ田宮二郎だったか)が愛人の家によって、ベットの中で口にしたセリフが忘れられない。
「教授になって、学部長になって、学長になるんだ」と。
このとき私はすでに教授になったあとであったが、 助教授が教授になるということは、世間ではそう考えているのかなと思った。
原作者の山崎豊子さんが、そんなセリフを本の中で書いていたのかと一寸調べてみた。
弘前市立図書館にいってみたら「人間の生命を預かる尊厳な医学界にも、地位・名声を求める人間の欲望と打算が渦巻いている−医学界の切実な問題をクロ−ズアップした衝撃のロングセラ−」と解説されていた「白い巨塔(新装版)」があった。
初出は1963年(昭和38年)から65にかけての「サンデ−毎日」で、続いて1967年から68年にかけての「続白い巨塔」が出ており、それを纏めたものであったが、問題のセリフは本の中にはみあたらなかった。あのセリフはTVドラマでのシナリオライタ−の作であったのであろう。
「消毒薬で手を洗い、看護婦の差し出したタオルで横柄に手を拭うと、財前五郎は、煙草をくわえて、外来診察室を出た」ではじまる一章の書き出しの文句も、時代を感じる文章ではあるが、はじめの部分は浪速大学第一外科の看板の財前助教授が、「次第に第一外科の次期教授の有力候補者としてあげられるようになった」ことから展開される教授選考にまつわる話がはじめのテ−マであった。
「医長の東教授は、来年の春に停年退官になるからである」
「東教授は東京の国立東都大学の医学部を卒業し、三十六歳で同大学助教授になり、四十六歳で大阪の浪速大学の教授になって」とあり、「東都大学医学部の助教授から浪速大学医学部の教授に転じた当時は、母校の東都大学で教授になれなかったことを終生の痛恨事と思い、暫く思いきれずにいたものであったが」という言葉が書かれていた。
東都大学は東京大学のことであり、浪速大学とは大阪大学と読みとれるが、共に国立大学である。その中の教授選考にまつわる話が書かれていた。
弘前大学も国立である。自分のときはどうであったかと思いをめぐらしてみると、書かれていることにはそんなこともあるかなと思ったり、そんなことはないと思ったりするのである。
しかし弘前大学のような新設の国立大学は旧国立大学に比べて違うと思った。
事実前任の高橋英次教授の時代に「新六」の会ができている。「戦後生まれの国立大の衛生・公衆衛生学教室の横の連合体として”新六”が生まれ、次第に数を増し、最終的には”新衛会”として発展した。いうまでもなく、戦前からある国立大に対抗するためにという念願からである」(辻達彦:余生語録No.24)。私が教授になったあと「新六」から「新衛会」へと40数年会合をもった話は前に書いた。その間のいろいろな情報交換の中で得た知識から、「白い巨塔」に書かれてていることは、一部ありそうなことと思ったりしたのであるが、新設の弘前大学にはあてはまらないことであると思った。私が弘前大学の医学部教授に選任されたときには、本にあるような泥臭い事があったとは思わないし、思いたくはない。小説の最後の結末は「誤診」で裁判にかけられた財前教授本人が「胃癌」で死亡するところで終わっている。しかしこの小説が昭和40年前後からその後につづく世間での「医学不信」「医療不信」のさきがけの一つになったことは否めない事実であろう。
「教授になるということ」とはどんな思いなのか、ちょっと書き留めておこうと思った。
弘前大学助教授として弘前へ赴任したとき「あっと驚いた話」(衛生の旅Part3)は前に書いた。「昭和29年1月16日文部教官大教7級(弘前大学助教授医学部)に採用する。3号俸を給する 任命権者文部大臣大達茂雄」であり、「宣誓書」に誓いの言葉をしたためたのである。それは私のような私立大学を卒業した者が国立大学教官になったときの驚きであった。
国立大学の教官になることとは「国家公務員」になることであり、「教育公務員」になることであった。そんなことは世の常識だと言われるかもしれないが、その常識がなかったのである。推薦して下さった慶應の教授もよく世の中のことを知らなかったのではないかとの思いもある。
昭和29年に弘前大学衛生学助教授として赴任したときの話しを「上野発夜行列車降りたときから」に書いたが、公衆衛生学教室が新設される時には候補者の一人になる可能性があるかなと考えた位であったが、高橋教授が仙台の東北大学へ転出されたので、後任衛生学教授の選挙が早くやってきた。
「教授に当選されました」とこっそり教授会の決定を耳打ちして下さった教授がおられたが、発令は「(現官職)文部教官弘前大学助教授医学部(異動内容)大教8級に昇任させる 弘前大学教授(医学部)に昇任させる 3号俸を給する(任命権者)文部大臣清瀬一郎 昭和31年9月1日」であり、同日付け「弘前大学弘前医科大学教授に併任する 任期は昭和35年3月31日までとする」であった。まだ弘前医科大学の学生がいた頃であり、当時流行した言葉のように「3号」であった。
大学も大きく分ければ、「国立・公立・私立」があり、それぞれに規則があり、内規があるから、「教授」といっても、その資格、選ばれ方など色々あるので一律ではない。弘前大学内でも学部によって違うのである。
私の場合にはすでに医専・医科大学の場合と違って公募(といっても色々な方法があるが)によっていたので、候補者3名に絞られたあとの無記名投票によったようである。30年近く教授在職中でも規則・内規が時とともにかわったし、現在はまた異なった方法で選任していると思われる。「言葉と文字とその意味」の一例としても、だから「教授」といわれても、その内容は「ピンからキリ」まである。言葉が不適当であれば色々とでもしておこう。学園紛争の効果のひとつに「教授会で基礎の教授が臨床の教授と同等に発言できるようになったことだ」との京大の某教授の言葉が耳にある。
丁度学園紛争の真っ直中に「評議員」を約10年「やらされて」(評議員の規則には辞退するという決まりがない。学部長、病院長や学長の規則にはあるが、教授会で選ばれればやらないわけにいかない)経験したので、「教授会」とは、「評議会」とはと考えさせられる機会があった。
本学医学部の場合は、医学部教授会規則があり、医学部長は教授の兼(併)任であって、教授と医学部長とは「縦」の系列は規則上ないのだが、実際上はそのように規則を理解していない教授もおられたし、教授会の運営は人によって異なった記憶がある。
大学の学長にはまた違った規則があり、これも「筑波大学」ができたあたりから変わったし、また現在変化が進行中とみられる。
では「教授」とは何であるのか。何にも知らなかった自分が「教授」に任命されたのだから、どうしたものであったのであったか。
「助教授」とは「教授」を助けるものとなっているが、医学部のような「講座制」をとている学部と、文京地区のように「学科制」をとっているところと違うのではないか、そんなことも学園紛争のさなか論議したこともあった。
「教授」は「教育」と「研究」をとなっている。それが本務である。
ところが「教育」も「研究」も、大学ではその内容には「何のきまりもない」。教授が考えたこと実行することが「教育」であり、「研究」である。こんな「青天井」のことが、「公務員」であることによって「身分が保障」され、ゆるされていたのだ。過去形で書くのは私のときはということで現在はという意味ではないし、そのように私は感じていたという意味である。それでいて俸給がもらえるのだからこんな良い「職業」はないといわれないことはない。学生の歌った替え歌に「教授 教授 と えばるな 教授、 教授・・・」あった記憶がある。
日本では「教授」といわれるが、これも明治維新後の「学制」が誕生して以来のことで、教授に任命された方々がそのイメ−ジを作り上げてきたものであろう。「医制」も「医師」も同様である。そしてそれを「小説」にしたてあげた方がいただけの話しであろう。
欧米でいう「Professor」も元をただせば「神への誓い」を表す「聖職」のイメ−ジが強いと思うが、ドイツとアメリカでは違うという印象があった。アメリカにいたとき皆がfirst nameで呼び合っていたのに、スペインから来た研究員が私に向かっては「プロフェッオル・ササキ」と大げさに挨拶された記憶がある。
教授になって「教室紹介」(日本公衆衛生雑誌、昭32)を書いたとき、私は「教育」と「研究」のほかに「社会への奉仕」を考えた。「奉仕」といってもそれほど深く考たわけではないが、「医学」の分野が「基礎」「臨床」と分けられるのが一般的であった時代に「社会的部門」のさきがけでもあったと今思う。
「まず最初に考えたことは、どのように教室を運営してゆこうかということであった。そして三の大きな柱を考えた。それは教育・研究、そして社会への奉仕である。これが一つかけても地方の大学の衛生学教室(現在1講座であるので実質的には衛生学公衆衛生学教室といった方がよい)の責任をはたすことはできないと思ったのである。一人三役はいかにもつらいが、又努力のしがいがあるところであり、又努力しなければと思っている」
「大分良いことを書きすぎたうらみがある。これには新しく教室を発展させてゆくための希望が入っているようだ。むしろ自分自身をむちうつことになりそうである。しかし地方の大学として、その地方の公衆衛生の向上にすこしでも役立つ医師をつくり、又社会の要求にこたえてゆくにはこれ以上に努力されなければならない。現在教室員は教授1、助教授1、講師1、助手2、研修員7である。この定員そして1講座ではいつかは車はからまわりはしないかというおそれがある。いつかは力はつき、おのれの小さい殻の中にとじこもった教室になるか、教育・研究そして社会への奉仕が充分行える教室になるかは今後の問題であろう」と書いている。若き日の思い出である。
「子供はいつ大人になるのか」に書いたことだが、自分の書いた文章、論文また随筆を含めて振り返って読んでみると、「教授になって」はじめて自分の責任において、自分の考えを述べているように読みとれる。その意味で「青天井」であると思う。それで「教授」をまっとうして退官できたと思っている。今は年金生活である。(20010710)