「衆院選比例代表の七十三歳定年制に基づく引退を促されたこと」が話題である。中曽根さんは拒否し、宮沢さんは受け入れた。それぞれ事情が違うようだが、ここではそれにはふれない。小泉総裁がどういう判断を示すかはこれを書いている今まだわかっていない。ここでは「定年制」についての記憶を書いておこうと思う。
私が弘前大学へ赴任した昭和29年教授になった昭和31年頃は、弘前医科大学から弘前大学医学部へと移行の時期で、大学医学部として色々の規則を制定する時代であった。そのなかに「停年制の制定」があった。弘大では「定年」ではなく「停年」である。
ちょうど佐藤煕先生が学部長になられたあとであったと思う。
「東大では定年制はないんだよね」と。でも不文律で60歳になると他へ移る仕組みになっていた。「東大」から有り難く戴くところがあった話であった。丁度60歳でうまく他に移る機会はないものだ,5年もたてば機会があるだろう。「60歳で権利を生じ、65歳まで」というのが佐藤煕先生の考え方であった。「停年」で退官すれば「退職金」の計算が違う規則があったからである。「でも文部省はうんといわないんだよ」と。結果弘大では65歳に決めたいきさつがあった記憶がある。東大以外の大学も同じ「新六」(新設六大学)の仲間でもそれぞれ年令を決めた。だから62,3歳のところもある。
弘前大学医学部でも、国立病院、県病などへ「天下り」の人事があった記憶がある。そのうち各所でそれぞれ「定年制」を取り入れることになって事情が変わってきた。
私の場合大学昇格以来非常勤講師で関係があった東北女子大学にスタッフ(教授)として受け入れてくださったが、理事会の決定とかで「70歳を定年とする」という書面が廻ってきたことがあった。でも「余人をもって代え難い」との理由かで延長されることもあったし、私の場合73歳で退職した。
自ら創業した場合には「生涯現役」で「定年」はない。自分が判断することになる。廃業するか後継者に引き渡すかのどちらかであろう。「医院」を開設された方はどう考えておられるだろうか。
福沢諭吉先生は「会社を創り、社中一同・・」と慶應義塾を創ったので、その創業者の精神を受け継ぐ人達によって運営されてきた。その集団で「定年制」をきめたときのうわさでは、例えば草間良男先生がその時を迎えたとき、病院長などの席がなかったので、現職なみに手当を与えたとかいううわさがあった記憶がある。
今話題の「年金」の問題ともからむ問題だと思うが、定年のあとの生活の保障をどうするかということである。私のような国家公務員であったものには「長期共済」で積み立てたものが「年金」としてもらえる仕組みになっていた。
人生それぞれである。人の一生はそれぞれである。個人が一人で生きてゆくには一人一人がその責をおわなければならない。一人で生きていけないのなら他の人との関係もできる。疫学では二人以上を集団という。その集団がどのように判断するか。その集団の判断が今問われれいると考えるのだが。(20003.10.25)