衛生学教室のアルバムから(その9)
写真1 昭32.7.
”ばかもりや”という店があった。
場所はかくは宮川の近くの町田商会の前あたりで、今はパチンコ・サウナがあるところである。
これを撮ったのは昭和32年7月だが、看板の電話番号をみると、弘前の局番がない。そんな時代の写真である。
ばかもりやの名のごとく、大盛りが評判の店であった。「タネは悪いが、50円で中華そば2杯たべられた」とアルバムに書いてあった。そのそばをおつゆに、やおら取り出した大きなおにぎりをたいらげている人をみて、何て大食いなんだろうと感じたのであった。高血圧の疫学的研究をはじめた頃の話である。
写真2 金木町斜陽館前にて 昭32.4.19.
その同じ頃,昭和32年4月19日の日曜日、当時の医学部2年生の遠足に招待されたとき、金木の斜陽館の前で撮ったと教室日誌に書いてある。
バスガイドのうしろには当時講師だった武田壌寿先生とその前が北畠顕文君だが、そのほか、一人一人顔をみると思い出す人達である。昭和35年第6回生の若き日の思い出の写真である。
写真3 東野教授 昭35.3.15.
東野教授が医学部長になられたが、はじめて先生をとったのは何時頃かとアルバムをめくってみたら、写真3が出てきた。
昭和35年3月15日の卒業式の日のもので、新しく来られた教授ということが意識にあって、シャッタ−をおしたのであろう。先生は34年5月の赴任で、はじめての卒業式であったとのことである。
その横顔に、若き張り切った姿をよみとれるのだが、又同時にこれをみていると、今、専門一年で勉強している長男の博君の顔とだぶるのである。
写真4 赤石・佐藤煕・片桐・佐藤光永 写真5 西川泰西君
あの頃の卒業式には先生方も沢山出席されていた。写真4はその一部で、佐藤(光)、片桐、佐藤(煕)そしてうしろ姿が赤石教授で、背景は今はなき文理の建物で、卒業式は木造の講堂で行われた。
野村学長の時代で、当時は文部大臣の代理は病院長がつとめることのならわしになっていて、松永院長の姿とか、その上青森県県会議長の代理と思うが、轟県会議員の姿を撮った写真があった。二階には父兄席があって、寄生虫の北畠先生が出席されているのが、小さく写っているのもあった。
その日の夕刻、わが家に入ったいた白黒テレビを前にカメラをかまえていたのを思い出す。「370人の学士さん誕生」のタイトルとか、橋本功君ら卒業生の顔がうつし出されたのをとったのがある。写真5は卒業生を送る言葉をのべている当時三年の西川泰右君である。
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