衛生学教室のアルバムから(その10)
副島廉治先生が去る53年9月2日おなくなりになった。
お住まいが近くだったので、家内ともども時々おうかがいしては、お話してきたことも今は思い出となった。
大学をはなれて大分なられるのに、色々と内部の事情にくわしく、やれ何々・・・と、さすが、と思ったこともあった。
アルバムに先生のお顔をさがしてみたら、前に紹介したことのある古賀先生の送別会・教授会風景の他に、35年3月2日に行われた先生の最終講義の時にがあった。
写真1 副島先生の最終講義 昭35.3.2. 写真2 学生
写真1は、演壇に立たれた先生が「かつて明治時代は・・・」と、外科が日本に入ってきた頃の思い出、また消毒や麻酔や器具、薬剤が不十分であった時の話をされ、又医師の倫理にもふれられた。場所は今はなき南臨床講堂で、写真2には講堂一杯の学生諸君の中に、手前の方から、8回生にあたる斉藤(?)、石渡、金沢、又中野、菊池君らの顔が写っている。
写真3 講演を終えて
写真3は講演がおわって、「どうも有り難うございます」と深々とお礼をされている先生で、そののばには息子さんの助手の清治君が録音をとっているのが写っている。
終わって学友会から花束贈呈、電気時計の記念品の贈呈があったと日誌には書いてあった。
写真4 「中三」にて 佐藤・副島・荒川・松永・中村
写真4は、丁度東北大へ転出することがきまった荒川雅男教授の送別会をかね、両教授の送別会は「中三」で行われた時のもので、当時のカメラマンは松永先生と私。
写真5
写真6.7.
写真5には、佐藤、副島、松永、中村、荒川、水平、槇先生ら、写真6,7には大池、中村、赤石、品川、和田、東野、帷子とならび、おしりの大きい女性は、いずれも現在も中三で健在である。
写真8
写真9 写真10
退官記念式は5月3日に、これ又今はなき大講堂で行われた。写真8は入場される先生で、佐藤医学部長、福田、藤田先生とつづいているが、写真9,10で席にいる方々の中でそれと今わかるのは左から大池、関、東野、小野(慶)、赤石、篠崎、立木、水平、石川、槇、佐藤(光)、松永、入野田、小野(定)、そして一番前列に野村学長のようである。
9月10日に行われたお葬式は、この土地で一生を終えられた先生にふさわしく、盛大であった。告別に述べられた次ぎの言葉が頭の中にとどめられた。
「副島先生が学生にいった言葉。医学を学ばなくてはならない。又人間とならなくてはならない」(石川)
「人間性豊かな、包容力のある方であった」(片桐)
「T.B.が今におとらぬ難病のとき、手をさしのべてくれた。ものにこだわらぬお人がらだった。人生を思いのまま自由に生きることをゆるされた。うらやましい人である」(大池)
「九州男児のかんろくを示してくれた」(蔦)
「弘前大学”名誉教授”副島先生」(佐藤)
「大きな手で握手して下さったぬくもりが忘れられない」(福田)
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