衛生学教室のアルバムから(その11)

 

 石川義信教授が4月1日限り停年退官、名誉教授になられることになった。先生の写真をさがしてみたら、昭和35年7月6日、日本学術会議第7部会が弘前大学で開催されたとき、スナップしたのがあった。写真1である。先生はこの時からすでに白髪であったが、今も益々美しい。

写真1文理学部校舎前・篠崎・石川・大池・入野田・佐藤・東野  写真2 記念撮影 昭35.7.6.

 写真2は、現在本部の建物のあるあたりで記念撮影という時、一寸前へ出て撮ったものである。なにしろ吉田部会長以下、各教授の先生にあたるような天下の大物が来弘されるとあって、教授一同お出迎えというわけだった。私などまだ若かったのか、あまり抵抗はなかったが、、あまり歓迎するのは”自主性”がないという意見の教授もおられた。野村学長、藤森市長、が写っているが、武藤、冲中、遠城寺、斉藤、藤本先生ら、前列にならんでいる方の大半が、今この世にいない。

 夜大鰐の不二やでの歓迎会の席上、この地方の「あたり」の話をしたら、吉田先生が病理学上の証拠があるかと聞かれたのが、まだ耳に残っている。

 

 この20数年間、建物の変化は外見上著しいが、動く”足”の変化がある。

 私の足が自転車から自動車に変わったのが36年で、学内ではかなり早い方だったが、教授会での一番は篠崎先生だったと思う。黒のクラウンで、体の大きい方は大きいのを選ぶものだと思ったりした。私のは中古のコロナからはじまって、現在のアコ−ドまで七台をのりついだ。

  

写真3 自動車部            写真4 日本一周へ 乾杯山本教授

 写真3,4は医学部に自動車部ができて、いよいよ日本一周へ出発することになった日のものである。この際のメンバ−は、沢田、鈴木(公)、橋本、外間、鈴木(重)、佐藤、疋田の七名で、その雄志は鵬桜会報30年記念号に掲載したので、そのほかのスナップをひろってみた。よくまあこんな車で、日本一周をしたものだと感心をする。写真3のうしろの小屋は自動車部の車庫だったと思う。写真4は部長の山本教授の音頭でビ−ルで乾杯という時にシャッタ−をおした。但し選手は”のまなかった”とアルバムには書いてある。

 

写真5 日本一周へ出発 昭37.7.8.

写真5のテ−プをきって出発したのだが、そのそばに立っているのが、一緒にきた私の長男で、もう彼は大学を卒業し、仕事につき、先日結婚したというのだから、月日のたつのは早いものだ。

    

写真6,7 医学部校舎前広場 昭53.5.

 そして現在、医学部前は写真6,7のようになった。写真7の橋は、基礎と臨床を結ぶ廊下で、昭和52年3月29日完成のもの。正面から入ってからすぐのところは、防災上、駐車禁止である。業者用3台分、あとは職員用だが、目下早い者勝ちでよい場所がとれる。ここに入れないものは、校舎の後ろの駐車場をさがすことになる。「駐車証」がないと巡視に紙をはられるから、久しぶりに学校に来られる方は注意を要する。

 旧朝陽小の校舎の前の、まだ舗装もしていなかった道路に駐車できた時代は、もう昔の物語である。

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