衛生学教室のアルバムから(その14)

 

 変わった、変わった、何もかも変わった、といのが最近の感想である。

 弘前では、その変わり方が、他とくらべておそい方かもしれないが、随分と変わったものである。

 以前に卒業した人にあうと、最近医学部へ行ってみると昔のものは何もない、という。そういわれてみると、本当に、20年前にあって、今のこっているものは、ほとんどない。

 

 写真1はどこからとったものか、昔の方はわかるだろう。

 五重の塔の前の、南塘グランドの端から、医学部・病院を見渡したもので、今年55年4月にとったものである。

 52年8月5日の津軽地区の集中豪雨のあとの洪水がきっかけになり、田沢先生が丁度大臣であったり、泉病院長らの努力がみのって、寺沢川沿岸、グランドなど一段と整備された。 

 もうこの画面には、人寮や、乳児院はない。

 その場所、写真中央には同窓会事務所があり、宿泊も会合もでき、食堂もある医学部会館がある。岩木山の手前の一番高いのは、基礎の6階の建物で、近く5階の動物舎が煙突の向こうあたりに立つ。右手の黒い柱のある建物は、短大の体育館である。そして近くそのうしろ、白い短大の建物の手前に「リハビリ部門」の建物が出来る予定である。

 こんな現代の風景から、写真2のような時代があったことが想像できようか。

 昭和35年1月23日撮影。場所は旧図書館の前の坂。34年にたった新病棟とその手前の動物舎。この小さな坂で、休み時間に、スキ−をやった人もあるだろう。

 昔のアルバムをとりだしてみていたら写真3が出てきた。教室にオリンパス・ワイドが入って、それで試写をしたとあった。 

 この道は、前回紹介したとは別の、もう一つの医学部への道である。公園の方から、大阪屋の前を通って、以前の基礎医学の玄関への道である。旧朝陽小、2階の角にあった衛生の教室の廊下の窓からとったものである。

 それでは現在どの位変わったかと、この原稿を書くためにとってみたのが、、写真4である。5階と6階の間の窓からとったのだが、昔の2階はかなり高かったと思われる。大木は健在である。火の見櫓は昔のままである。

 その向こうの建物は、弘前市役所である。道路そのものは大して変わらず、舗装され、歩道ができている。このあたりには、石坂洋次郎や槇哲夫先生らが住んでいた(?)ところではなかったか。佐藤内科とは7回生の巳代吉先生の医院である。写真5、この角が、昔医学部の基礎の玄関のあったところで、今は入り口はない。ただ、ここに、昔からあり、古い方々には多分記憶にあると思われる松があった。佐藤光永先生名付けての「大黒松」(弘前大学医学部三十年史、737頁)である。

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