衛生学教室のアルバムから(その16)

 

 去る6月27日夜、丁度厚生省の班会議とうまく日があって上京していたので、帝国ホテル鶴の間で開かれた東京同窓会に出席することができた。

 アメリカ帰り空港から直行の米田正会長、解剖の玉木正季先生(現品川医師会長)、名古屋から参加された高橋信次先生ほか、なつかしい顔、顔、顔であった。

 弘前からは私一人だったので、最も新しい ニュ−スということで、6月17日、かっぽう中三で開かれた新任教授歓迎会の様子をしゃべらして戴いた。

 「再び、教授だけで、野球チ−ムができる位に若がえった」こと。「次ぎに正面に座るまで、頑張ってください」と乾杯の音頭をとったことなど。

 席上、昔は東京都人会をやったという話が出た。

 「そんなことがありましたか」「そういえば、正木先生をかこんで、浅虫でやったことがありましたね」

 「私の頃は、東京以西ひとまとめでやりました」「では次回の衛生学教室のアルバムからには、その時の写真をおみせしましょう」ということになった。

 

写真1 東京都人会 昭33.5.31.

 写真1はその証拠の写真のうちの一枚である。

 時は昭和33年5月31日、土曜日の夜である。学際東京都人会ということで、医局の先生方も、看護学生も参加した。下白銀町のオンボロ官舎の一室である。

 第2生理で勉強していた三尾修一先生はその後弘前で開業されることになった。右うしろの浅倉礼治君は先日の会では会計の世話をし、家内のうしろにすわっている丸山英敏君(松戸市で開業)はこの時のごちそうが忘れられないと、今度もスピ−チしていた。大したものはつくらなかったのにと家内はいつも恐縮している。何しろこの時そばにうろちょろし、写真をとるときには襖の向こうで寝てしまった男の子二人の上の方が結婚し、子供ができて、という二昔も前のことなので、思い出はすべて美しいものになってしかうものなのか。

 

 私が昭和40年9月に文部省在外研究員として渡米する前々日の4日の土曜日に、新橋第一ホテルの白楽天で、バイキングの東京同窓会が開かれている。

 はじめての外遊ということもあって、日記をかなりくわしくつけていたので、それをよむと、この日の出来事は昨日のように思い出される。

 「第一ホテル、午後5時半、中村勉医学部長はじめ順に集まってきた。総勢40数名。慶應の小児科でアルバイトをし綱島で開業の葛西健二君、私の講義をはじめて聞いてくれた西村俊夫君。のど自慢日本一の萩野昭三さん、佐藤熈学長、永山隆造、浩子さん。川島一利、宝田正志、大滝千佐子、佐々木時雄、道子さんの顔みえず、お腹が大きいとか。水平敏知、柳田尚、森松義雄、橋本喜光、矢吹荘(第二生理研究生、現東邦大内助教授)、安部治彦、インタ−ンの工藤忠、伊藤恍、駒場稔、阮秋栄、外間章、佐藤真、玉木先生、米田先生、会費1500円と2000円。

 翌々日の6日夕、羽田からたつとき、大勢の方々が送って下さった。

    

写真2,3 羽田空港ロビイ−にて 駒場・工藤   大滝・佐々木・加藤 昭40.9.6.

 佐藤煕先生がバルコニ−から声をかけて下さった。写真2,3はその時のスナップの一部である。

 先日の東京同窓会で大滝千代子さんが顔をみせていた。

 「まだ名前が変わらないようですね」

 「先生もお若いと思っていたのに、おぐしの具合がうすくなって・・・」

とはうまい表現である。酒田に帰らず、東京におちついてしまったようだ。

「久しぶりに弘前へ行ったら、角はなくなっていて・・・」

 同級の道部乗君も静岡から新茶をもって参加していた。加藤亮子さんはどうしているかしら、保医研で活躍した人だったが。佐々木(小坂)道子さんのお腹にいたお子さんもすでに大きくなっていることだろう。。ご主人の時雄君から今度出版された本「ナルシシズムと日本人−精神分析の視点から」を頂戴した。「いつも変わらぬ御支援を賜ったことを感謝してと」と書いてあった。「 いつ頃からのテ−マでですか」「学生時代からです」とのことであった。

 アメリカ留学をおえ一時弘前にいた工藤忠君も、丁度東京へ出て一年近くになりますといっていた。東京同窓会の会合のスピ−チはテ−プにとられ、会誌として刊行されるという。この時聞いた数々のエピソ−ドは、当の本人の写真がでたとき書かせて戴こう。

 今回は東京同窓会だよりになってしまった。東京に生まれ育った自分が弘前に落ち着き、多くの同窓会員が東京付近で活躍しているのを見るとき、感慨無量のものがある。

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