衛生学教室のアルバムから(その19)
”鵬桜会報 いつもの原稿お願い致します 7月15日頃まで いかがでしょうか”東北肛門病院鳴海裕行という名刺が机の上にのっていた。
”いつもの”ということでわかるこの原稿も19回になった。正にしりをたたかれて。でもこのシリ−ズが好評なことはたしかなようである。
先日も、沖縄の同窓会によばれて、というより、日本民族衛生学会の地方会の特別講演によばれて那覇に行った機会に同窓会を開いてくれたのだが、この”衛生学教室のアルバムから”の話が出た。
そんなとき、写真に”顔”が出ていたといわれると、皆の顔を出さなければならないと思ったりする。
遠い南の国で、北国の弘前を思い、学生時代を思い出してくれる人が沖縄にいた。
全国で、また外国で活躍している人のいることを忘れてはならない。
今は百冊をこえたアルバムの中から、一枚一枚をえらび、その人を思い出しながら文章を書くことも又私の楽しみになった。年をとったのかな。
さて前回(その18)に、第1回の脳卒中研究懇談会が十和田湖で開かれた時の歴史的な写真をのせた。その会場で写した写真の中で、どうしてもわからず”?”をつけておいた方が、どうやら岩手大で脳出血の病理の研究をしておられた林佐元先生ではないかと。
これを教えてくれたのは、弘前で開業している斉藤重周君(岩手大昭43年卒)である。やはり母校の先生の顔はすぐわかる。そのことを教えてくれた場所は、大鰐のスキ−場で、それもナイタ−の時だった。
写真1 大鰐スキ−場にて 昭31.
写真1は、私が大鰐にできたリフトに初めてのった時撮ったもの。昭和31年2月国体が開かれたときだった。その当時のスキ−場はこんなだった。
リフトは一本。これが第一で、第二・第三ができ、昨年から第二スキ−場に第四・第五リフトがついた。そしてナイタ−をはじめたのだ。夏はス−パ−スライダ−、ゴルフ場、そしてゴルフ練習場となる。これが最近のニュ−スである。
ごく最近のニュ−スといえば、弘前の地震だが、この時の写真でアルバムも一冊ふえた。ゆれにゆれて、一段落した時、最初の構内放送は
「しばらく手をつけないでおいて下さい。写真をとりますから」と。
学部長出張中。あとの予算の折衝に役立たせようと。何と有能な事務官のいることか。
前号のさしこみにあったように、石見貞次教授が亡くなられた。
悲しみにたえない。順番を間違えて先立たれた。
医学部講堂の祭壇を前に、静かに君を待った。葬送の曲の中に式ははじまった。
「心みだれて言葉にならないが、真面目な人でした」
と角田名誉教授は先日天皇陛下にお会いした時と同じモ−ニング姿で語りかけられた。
写真2 教授会 昭49.8.28.
篠崎・大池・佐々木・工藤・後藤・帷子・岩淵・山鳥・石見
写真2は、教授会の生前の石見君をみる記念すべきものと思う。
新しい医学部の会議室ができてはじめて教授会が開かれたとき、松永先生が学部長で、教室のカメラマンにその時の様子をとらせた内から戴いた一枚だ。
新任の教授ということだったのだろう。末席にひかえていたのが石見君だった。別に席順があるわけでないし、教授は教授だが。
生前の”声”はないだろうか。葬儀委員の方から話があった。佐々木先生のところへゆくと何でもある。
たしかにあった。NHKで放送した時の録音が。”衛生学教室のテ−プから”これも種はつきない。
だが、あまりにも悲しいできごとだったので、式の中ではながされることははぶかれた。
悲しいこと、もう一つ。
57年も暮れの12月30日、48卒の北原明夫君が急逝された。北原君が専門に進んできた頃は、前号に一寸紹介したように学園はあれていた。
その中で真面目な彼は人一倍苦しんだのではなかったか。
一番強烈だったのは、おぼえている人もいるだろう。彼は基礎の玄関前で、ハンストをやったのだ。テントをはって。
写真3 ハンスト決行中 昭44.11.10.
写真3はテントの中での彼の顔をみることはできない。その後アメリカで勉強し、生化学の研究にうちこんでいたのだ。若きひなどりをのこして、いそぎはしぬけるようにさっていった。
あけて1月8日、新寺町の徳増寺で第二生化学教室葬として彼を送った。お通夜の席、同級生の奥さんの澄子さんが、お子様を気丈夫に世話をしている姿にほっとしたのだが。 冥福を祈る。
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