衛生学教室のアルバムから(その26)

                  

 前回(その25)は建物を主としてまとめてみたのだが、やはり「人」がいた方がよい。それも皆の知っている先生とか卒業生の学生時代の姿とか。

 今度は人物の写真を主にしようと考えてアルバムをみていたのだが、「山本先生がお亡くなりになりました」と細菌学教室から電話があった。

 山本耕一先生は衛生の初代教授の高橋英次先生と同期で、また細菌学教室と衛生学教室とは古い校舎の二階で隣合わせであったこともあり、思い出も多く、写真もいくつかはあるが、その中で先生がよく写っているものを選んでみた。

 写真1、2は、昭和50年4月12日、松永藤雄先生が東京の駒込病院長として弘前を立たれるとき、先生を医学部玄関前で一同お見送りしたときスナップしたものである。

写真2 松永・檜山・副島・山本・福田・関野         写真1 山本・松永・佐藤

 それまで転任される先生をお送りするのは弘前駅が普通で、松永先生の場合そうでなかったのは、先生が青森空港から空路東京へ立たれたからであって、こんな送り方は初めてであった。その風景を沢山スナップしたのだが、その中で山本先生の写っている2枚を選んでみた。

 写真1の三人は昭和十一・二年東北大学卒(山本・松永先生が十一年卒、佐藤先生は松永先生の二高時代の先輩で、医学部は十二年卒の後輩といっておられた)の同級生ということで、期せずしてこんなポ−ズになった。

 三人のまん中の方が早く亡くなると言われてはいるが、光永先生、耕一先生亡きいま、お元気なのはまん中の松永藤雄先生だけになってしまった。

 

 写真2にはお元気だった副島廉治先生の顔がみられる。その他桧山登・福田幸雄・関野英二先生が写っている。その他学内外の沢山の方があつまって、盛大の見送りであった。

 握手されている山本先生の手のあたたかみはどんなものであったろうか、それは写真では伝わらないし、今はもうこの世にはない。

 写真3、4、5は昭和39年4月28日、新入生歓迎パ−テ−が弘前相互銀行クラブの庭園で開かれた時にスナップしたものである。

写真3 佐藤・中村・入野田  弘前相互銀行クラブ

写真4 昭和43年卒14回生         写真5 昭和40年卒11回生

 当時この庭園は学会とか学生の会にも自分の庭のように使わせてもらっていた。西に岩木山を眺め、弘前一番の場所であった。

 医学部長は中村勉先生の時代で、写真3は佐藤光永先生が挨拶されているところ、そのうしろに入野田公穂先生がひかえておられる。

 この時であったか、別の時であったか、私にはこの場所でシュ−マンの「美しき五月に」を歌った思い出がある。そんな歌がでるような場所であった。

 そのうちにこの藤田別邸の庭と言われていた場所が使うことが出来なくなって月日がたってしまった。

 今市制百周年を迎えた弘前市の記念事業の一つとして、庭園の整備があげられているので、近くまたこの庭園を楽しむことができるようになるだろう。

 桜の木に囲まれて先生方を正面にして、学年別に、男子学生と女子学生は別に、椅子に座っていた。

 この時写っている人たちの顔を眺めてみると、女子学生は亡くなった東野有子さん、そして石村美智子・小枝玉枝・山道旬子・渡辺信子さんらが写っているから、昭和39年に進学したばかりの人たちで、43年卒(14回生)であり、男子の方は工藤忠君らが写っているから、当時4年生の40年卒(11回生)の人たちである。この11回生の人たちから卒業25周年の記念の小宴を催すことになりましたのでご臨席賜りますようとの案内状を先日いただいた。もうそんな時間がたってしまったのである。

 

 写真6が何をしている場所なのか思い出される方がいたら、それは昭和54年以後に入学された方だ。

写真6 入試面接の場所 帷子・福田教授 医療短大にて 昭54.3.4.

 それは初めての経験であったので、記録にとっておこうと思ってシャッタ−をおしたのだ。

 昭和54年3月4日(日曜日)入学試験の当日、医学部では初めての「共通元年」の面接が行われたときの写真である。

 教授連は医療短期大学部の校舎に総集合し、何組かに分かれて、教授三、受験生五名で三十分の面接であった。

 私は帷子・福田教授との組であった。

 それでも受験生が部屋にはいってからはどうかな、シャッタ−は遠慮しようと考え、準備の時に撮った。

 なにしろ、初めての経験で「初体験 双方とも緊張し」、前もって「聞くことと聞かないことをきめ、聞き」であった。

 でも、いまの受験生が何を考えているのかの一端がわかって、教授連の勉強にはなったのではないかと思っている。

 「伝統ある弘前大学医学部という言葉聞く

 「ごみごみした都会より山を歩きたい

 「よくでてくる僻地医療に献身したいの本心はかりかね

 「三千円はらって(受験産業診断のために)志望校をきめ

 「半分が入れないことになるとはかわいそう

など当日のメモに書いてあった。

 ある時スキ−部の新入生歓迎コンパにでたら、先生に「スキ−はやるの? アルペンですか、デイスタンスですか?」と聞かれたといっていた学生がいた。

その思い出の場所を記録の一頁に残しておこう。

その27へ  もとへもどる