「言葉(ことば)はこの地球上に数千ある」という話が枕元のラジオから飛び込んできた。
ああそうなのだ!と思った。
東京に生まれ、東京の言葉しか喋れない自分は、この弘前にきて「津軽弁」は喋れないから、講義でも地域へ出ての調査の時にも「東京弁」だけを喋ってきた話は前に書いた。
鰺か沢で生まれ五所川原高女に通ったことのある家内の津軽弁は「native」だから、買い物とか近所付き合いに自然に会話が通じたようだ。といっても海岸育ちの言葉とこの弘前では言葉が違うという話を聞いたこともある。東京の上の手と下町の言葉の違いのように。
ここで生まれ育った子供達は「東京弁」と「津軽弁」の「バイリンガル」である。
私の育った小学校には「英語」があったから、小さい時から「英語」は身近にあった。
父や兄は「フランス語」を学んでいたが、私は全くであった。
アメリカへ行ったときシカゴの美術館でみた「ドガ」の絵に強く印象をもったことがあった。女がお風呂といってもタブといったものに足をかけている一瞬を捉えた絵であったが、生活をよくみつめているところに印象をもった。ミネソタに帰ってきて同じラボに留学していたK君にその絵をみてきたことを話したとき、”デガス”(Degas)の絵をみて来たといったとき、「ドガでしょう」といわれた。「はっと」はずかしい思いをしたことを思い出す。
WHOで仕事をしたいと思ったこともあったが、「フランス語」ができない自分は無理だと思ったことも思い出す。
医学部へ入ると「ドイツ語」だと中学の時に講習会があった。ドイツ語はウインクラ−先生ほか何人かの先生に教わった。ドイツリ−ドを全曲覚えたり、今も忘れない歌曲もある。
学問のもとは「ラテン語」だとラテン語の講義もあったが身につかなかった。
衛生学の講座を受け持つようになって、医学の展開の歴史を勉強してゆくと、言葉そして文字、その意味を振り返る機会があった。でもせいぜい「英語」「ドイツ語」「フランス語」そのもとの「ラテン語」以外には出なかった。
アメリカに滞在していた時、アラブ諸国からの留学生に家から来た手紙をみせてもらった時に、右読みか左読みかも分からなかったことを思い出す。
イラン・イラクのTVの画面にアラブの文字が登場し、自衛隊の人がその土地の言葉で挨拶をしているのを聞くと全く意味が分からない音が耳にはいるだけで、その時のことを思い出す。
韓国へ呼ばれて行ったとき、ハングル文字に圧倒された。500年位前に合理的に考えたれたものだと説明を受けた。
中国は漢字の国であるが、文字のもつ意味が全く日本と違うことがいくつもあることが分かってきた。また新しい字が通用している。台湾は漢字の国だから、推測はできた。
その日本も漢字・ひらがな・カタカナの国で、それになれてしまった自分にはすぐ分かる。
オオムが話題になったとき、その言葉・文字に「梵語」があったことを思い出す。
国際語として「エスペラント語」が話題になった記憶があるが、最近では殆どきかない。「ヤクルト」の命名は「ヨ−グルト」の「エスペラント語」であったと聞いた以外に。
日本も明治維新の前は、それぞれの地方に独特の言葉があったのではなかったか。他の地域の人達とすぐ分かることになっていたのではないか。それが「標準語」として統一されそれぞれの地域の言葉は「方言」と云われるようになったのではないか。沖縄行の話の中に「方言札」に育てられた人達のことを書いたことを思い出す。
ロ−マは一日にしてならずといわれるが、ヨ−ロッパの大半を制した時代には「ラテン語」が中心になり、宗教音楽もわれわれの習った医学ももとを正せばそれからの積み重ねではなかったのか。だがラテン語は忘れられた。活字としてのロ−マ字は現代につづいている。
スペイン・ポルトガルが世界に足をのばしたが、現在まで各地に単語としての言葉を残した。日本にも。
日本は漢字のほか、南蛮から、オランダから文化が入ってきた。横浜居留地でオランダ語が通じなかった若き福沢諭吉先生が英語の勉強に切り替えたエピソ−ドが語られている。
世界にユニオンジャックの旗を翻した英国の「英語」は世界中に広まった。その英国から独立したアメリカも「英語」が主である。
数百の言葉があったインドは英国の植民地になったあと英語が共通語になった。インド人の英語の発音はよく聞き取れなかった記憶がある。最近のニュ−スを見ているとインドではアメリカからのコンピュ−タの入力のアルバイトを受けて、時差を利用して大いにかせいでおり、アメリカでのアルバイトが無くなって大騒ぎしているという。
コンピュ−タは軍事から研究へそしてビジネスになってインタ−ネットの世の中になったが、基本語は英語である。各国の語に変換は可能な世の中にはなったが。
大分前WHO関連の会議に出席したとき、20名位の中で英語をnativeの人は2名だった記憶がある。その中で何とか意思を通じあっていた。
これから当分「英語」が通用する世の中になるのではないか。
かつて日本の国語を英語にしたらという大臣がいたとういう記憶があり、最近では文化勲章をもらったような方が「英語」にしたらと一回書いていた記憶があるが、国粋主義者に遠慮してかそのあとはそのようなことは書いたりしなくなったようだ。
イラン・イラクのニュ−スの中に部族の話がでてくるが、それぞれ別の言葉があり、考え方があることが伺われる。
そこへ「英語」ならぬ「米語」が入ってきたのだからこれからどうなるのであろうか。(20040215)