「キャッチボ−ル」の記憶

 

 「キャッチボ−ル」は野球の第一歩といわれるが、小さいときから野球をやっていた自分にも思い出は多い。しかしここで書こうと思ったのは、野球の思い出ではない。

 6月7日のMainichi(電子版)のニュ−スを見ていたら、「アインシュタインの手紙6通」の記事をみたからである。

 以前に博士の学説が彼独自のものではなく、初恋の相手との共同のものであるかを伝えたニュ−スを見た記憶があるが、そのような「男と女」との関係も興味はあるが、そのことではない。

 博士が哲学者の故篠原正瑛(せいえい)さんと取り交わした「平和観」や「戦争責任」についてつづった手紙の寄贈先を家族がさがしているということを伝えたものであった。

 詳細はその手紙を見なければわからないが、篠原さんがドイツ語で送った「あなたは平和主義者というが、なぜ開発をうながしたのか」と批判する手紙をきっかけに始まった文通のやりとりの博士の手紙6通のことであった。

 前に「覚書・記憶・そして・・・・」に「アインシュタインがドイツに負けないために原爆を作るようアメリカ大統領へ手紙を書いたといわれる。・・・・平和運動を始めたとも云われる、・・・・」と書いたが、その時の博士の気持ちに関係のある手紙であったからである。邦訳(原語はドイツ語とか)の一部が示されていた。

 53.2.22 「・・・私は絶対的な平和主義者だとは言っていません、私は常に、確信的な平和主義者です。つまり、確信的な平和主義者としてでも、私の考えでは暴力が必要になる条件があるのです。その条件というのは、私に敵がいて、その敵の目的が私や私の家族を無条件に抹殺しようとしている場合です。・・・したがって、私の考えではナチス・ドイツに対して暴力を用いることは正当なことであり、そうする必要がありました。」

 53.6.23 「・・・私は日本に対する原爆使用は常に有罪だと考えていますが、この致命的な決定を阻止するためには何もできなかった。・・・他人やその人の行為についてはまず、十分な情報を手に入れてから、自分の意見を述べるように努力すべきでしょう。・・・」と。

 この断片的ではあるが抜粋によって、博士の「科学者」としての考えが少しは理解された気がしたのであった。「確信的」とは?ドイツ語は?とは考えるが。

 篠原さんが脳梗塞で倒れたあと、蔵書などを売って療養費に充てたが、博士からの手紙は手放さなかったとか。「お金や名誉に執着しなかった夫は、博士の生き方に共感していた」という。

 「哲学者」というものは私にはよく理解できないが、そのような「批判」そして手紙のやりとりは、今いうところの「キャッチボ−ル」にあたるのではないかというのが、本文の趣旨であり、羨ましい話と受け取った。

 それに関した「記憶」というのは、私にも「ボ−ル」を投げたことが何回かあったことが思い出されるのである。 

 「科学者」としての「キャッチボ−ル」はド−ル先生とのやりとりがあったが、今は先生はいない。

 「食塩」をめぐる方々とのやりとりもいくつかあったが、その殆どの方もなくなった。「批判の批判」のやりとりは書いた。 

 いつだったか小泉信三先生が「墓堀は人が死ぬことを喜んでいる?!」とかいう経済学者のことを話されたのを聞いたとき、先生にそれが何方で何処に書いてありますか?をお聞きしたことがあったが、「ボ−ル」は返ってこなかった記憶がある。お隣の法医の亡き赤石英教授の奥様が事件があると・・・の記憶と重なる。

 教授になってからは「多くの質問」を受けたことがあるが、その都度「ボ−ル」は返したつもりである。

 もっともドイツの学会かで「question:質問」「comment:コメント」ではなく「ご教授をお願いします」と発言したら、あとでその人あてに「請求書」が送られてきたという話も記憶にあるが。

 或る流行作家が書いた文章に「批判」「質問」の書面の「ボ−ル」をいくつか送ったことがあったが、まだ「ボ−ル」が返って来ない記憶もある。

 「educator」として何千人かの方に「ボ−ル」を送ったのだけれど、・・・。

 最近は公表の住所への手紙・Eメ−ル・FAXしか見ないが、時に思いがけない方から手紙・メ−ルがとどくことがあるが、「ネチケット」のない方には返事はしていない。

 「ボ−ル」のやりとりで、「キャッチボ−ル」をして、ほんとうの友情とか交際がうまれるのではないかと思うのである。(20050612)

弘前市医師会報,303,23−24,平成17.10.27

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