「批判の批判の論文」についての記憶

 

 日本医事新報掲載の論文のうち記憶に残るのもの一つである。

 脳卒中の地域差と食生活との関係で一般にいわれ始めてきた「食塩過剰摂取説」に対して千葉大学の福田篤郎教授の「批判」の論文に対して、教授になりたての頃の私が「批判の批判の論文」を日本医事新報誌に投稿し、採用掲載された論文のことで、それにまつわる私の記憶を書いておこうと思う。

 

脳卒中頻度の地方差と食習慣 食塩過剰摂取説の批判(福田)の批判

 

弘前大学医学部衛生学教室 教授 佐々木直亮

 

日本医事新報, 1955,10-12, 昭36,掲載

 

 昭和15年頃であったか、学生時代に生理学の口答試験で、教科書にはなかったが講義で聞いた「腎上小体から分泌されるコルチン」のことを答えて単位をもらった記憶があるのだが、福田教授はその方面の研究をやられていたのか、学会での発表で名前を存知あげていた。

 またどのような経過かは知らないが、秋田農村での農民の高血圧者の頻度が高いこと、また尿中に排泄される食塩量、当時はクロ−ルの測定からであったが、293名の平均26.3gの数値を示され福田教授らの報告(昭27)は、昭和29年東北地方農民の脳卒中ないし高血圧の予防についての研究を始めたわれわれの参考にした論文であった。

 私信のご返事を戴いたこともあった。

 私の論文掲載にあたって日本医事新報社から先生にも「ぜひ一言述べてもらいたいと」あり、「依頼に答えて」の小文を同じ欄によせておられる。

 

 私は昭和29年に弘前大学に着任したが、国際的に「疫学」が云われ始めた時期でもあった。

 またゴルドンの「医学的生態学としての疾病観の発展」(昭30)に強く影響を受けたことが思い起こされる。多要因疾病発生論としての(agent/host/environment)の平衡関係(equilibrium)として捉える考え方で、私の論文の中にも「疫学」と同時にその考え方があることが伺われる。当時はまだagentとしての「生体」については「体質」とか「遺伝」とか漠然とした言葉でいわれていた時代であったと思う。

 「疫学者」としてその考え方は今も変わっていないが、福田教授の生理学的考え方にたいして疫学者としての考え方をのべている。

 昭和34年に日本医学会総会が開催され、福田教授が生理学の立場から報告をされたが、その内容を伝えた朝日新聞は「高血圧と塩は無関係」と報道した。この記事は高血圧と食塩過剰摂取との関係を学会で発表し、学会誌にも発表していた自分にとっては「頭」にはこなかったが「火」はつき、また先生がその趣旨を書かれた論文を読んだときには、私として、「疫学者」と考え始めた私の、筆をはしらせることになったのであろうと思う。

 前に高橋英次先生と共に「高血圧の予防」を投稿し掲載された日本医事新報へ原稿を送った。

 脳卒中や高血圧の予防の為に食塩過剰摂取を必要最少限の「減塩」(この言葉のかわりの「低塩」をのべたのであったが)を発表し始めた頃、「そんなことをしたら皆ばたばた死んでしまうのではないかと」という意見をのべた手紙が殺到した記憶がある。当時の教科書や一般の本にもかかれていた「常識」の「壁」にぶつかった記憶がある。その理由にブンゲ博士(Bunge)の研究(ドイツ語であったが、教室にきた三橋君に全文訳してもらったこともあった)があったが、それをもとに「わが国における食塩摂取についての常識と問題点」を日公衛誌(昭32)に書いた記憶がある。

 食塩と高血圧の文献を調べていくとすぐぶつかる論文の著者、またすぐ手紙を送ったDahl先生のことを、私は論文の中で「デ−ル博士」と書いている。

 直接先生にお会いしたときの最初の質問は先生の名前は何と発音したらよいでしょうかであり、それからは「ド−ル先生」と書くことにした時のことを思い出す。。

 先生の部屋には千葉の先生方と一緒に撮った写真が飾られていたことも思い出される。

昭和31年度発表の厚生省の栄養調査に「食塩」が入っておらず、資料から概算し報告したが、国内の地域差を検討する資料として農林省の栄養調査は経済からみたものであったが、農民について検討したこと(日公衛誌、昭38)もあった。

 食塩だけでなく他のミネラルとの関連もわれわれの「りんご」の研究が手がかりになったのではなかったか。

 統計学の結果の理解についての問題も考えられる。前に「厚生省はカルト集団か」に書いた問題でもある。

 原因と結果、因果関係など生理学者と疫学における理解との考え方に相違を感ずる。

 以前「一冊の本」としてクロ−ド・ベルナ−ルの「実験医学序説」をあげ、自分の基礎にこの生理学者の書いた本があり、「私は今衛生学にいる。人間と環境との接点に身をおき、多くの人々の生活を見、知ることによって、広く人間の健康の問題をとらえ、疫学的に接近してゆく学問の展開を必要とするように思うようになった」と書いている。

 改めて当時書いた論文を読んで、私はそんな時代に学問をした身であったと思う。(20050520)

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