先に「厚生省はカルト集団か」について、主としてY氏の論説を中心に書いたのだが、その時書き残したことがある。
Y氏は「健康という万古不易の価値があったのである」「歴史を切り開き、文明を創造してきたのはいつの世にも、そのときは異様で(不健康)な精神であったことはいうまでもあるまい」と述べている点について、「健康」は時代時代に変わり万古不易ではないと思うし、「不健康」などと表現することには抵抗があると考えることを書いて置きたい。
「健康」について、私が経験したことの覚え書きを書いておこうと思う。
「健」も「康」も中国からきた漢字に違いないのだが、「健康」が果たして、どこから来たのか、誰が造った言葉なののか、それにどのような意味を与えたのかは、明らかではない。
「健康は現代のキ−ワ−ドである」と毎日新聞にあったが、この場合の「健康」は「Health」と同義語であると思われるが、「Health」はどこからきたのか。その意味はなんなのか。
「ことば、文字そしてその意味」として「健康」をとりあげてみたい。
前に「衛生をめぐる人々」の中で、明治維新のあと日本で「衛生」が行政の中で始めて用いられたことについて長與専斉の「松香私志」の中にそれについて記載があることについてちょっと書いたことがある。
この「松香私志」が今手元にあるのは、昭和60年に東京大学医学部衛生学教室開設百周年記念の会が和田攻教授のもとで行われ、百年に一回のことだからということでお祝に上京したとき、記念品として「長與専斎遺著:松香私志」(覆刻)を戴いたのであるが、今度また読み直してみて、大変面白く、また今回の話題にも関係があるので、すこし紹介しておきたいと思う。
「松香は余か別號にて其の私史私志なといへる類なり」とあった。
天保九年肥前国で出生、明治三十五年65歳で死亡するまでのことが書かれているが、17歳のとき緒方洪庵の適塾に入っている。23歳長崎病院に入り医学を研究する。31歳長崎病院長当選。医師養成機関として「教師マンフエルドと謀り学制を改め学科の順叙を定め試験の方法を設け」長崎医科大学の基礎を造る。江戸から東京と改まり、「満機の政務悉く太政官より出、教育のことは文部省への時代で、萬事更新の折柄」であった。明治4年34歳命によって出京、文部省で「医制取調」をはじめるが、「四方山の物語なしける内、今度政府より使節を欧米各国に派遣し各省の理事官も同行するよし話せる人のありけるに、驀然として心に浮ふ事のありしか」「九段坂に木戸候を訪ひ事の次第を陳へけれは候も承諾せられ、幸いにいまた醫家出身の人には志願ありとも聞かず、文部理事官として田中不二麿子爵命せられる筈なり」と運良く随行員として「余は醫学教育の調査に任したり」であった。
「本年七月東京に出てしより進退途なく困じ果たし折柄、其の苦境を脱するさえあるに世界の壮遊を試みることとなりければ、天にも昇る心地して其の愉快譬ふるものなかりき」と書いていた。誠に正直な気持ちをのべている。「遊」も今と違って「学ぶ」「勉強」するの意にとれる。NHK-TVをみていたら白川静さんが「遊」とは「精神的に自由な状態」と解説していた。長與専斎は岩倉公一行と一緒に船出することになったのである。
また次ぎの記載が重要で、今の厚生行政のはじめの物語である。
「英米視察中醫師制度の調査に際し(サニタリ−)(sanitaryであろう)云々(ヘルス)(healthであろう)云々の語は屡々耳聞する所にして、別林(ベルリン)に来てよりも(ゲズントハイツプレ−ゲ)(Gesundheitspflegeであろう)等の語は幾度となく問答に現れたりしが、初めの程は只字義の儘に解し去りて深くも心を留めざりしに、漸く調査の歩も進に従ひ、単に健康保護といへる単純なる意味にあらさることに心付き、次第に疑義を加へ漸く穿鑿するに及ひて、此に国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織あることを発見しぬ、是實にその本源を醫学に資り」「凡そ人間生活の利害に繋れるものは細大となく収拾網羅して一團の行政部をなし(サニテ−ツウエ−セン)(オツフエントリヘ、ヒギエ−テ)なと称して国家行政の重要機関となれるものなりき。さても醫学関係の事業にして斯る大事の目前に横はれるをも心付かず、廬山に入りて廬山を見す、米英以来半年以上夢幻の如く泛遊しうかうか看過したる事の今更に悔しくもまた恥かしく嘆息の外なかりけり。されど既往は悔ゆるも詮なし、一旦心付きたる上からは十分に詮索を遂げ本邦に斎らして文明輸入の土産となすべし、元来今度巡遊の命を拝したるは醫学教育の事を調査するが為めなれとも、此事はその端緒已に本邦に開けたれば」「然るにこの健康保護の事に至りては東洋には尚ほ其名称さへなく全く創新の事業なれば、其經営洵に容易のわざにはあらす而かも其の本源は醫学に資れるものなれば醫家出身の人ならでは任すへき様なし、されば畢生の事業としておのれ自ら之に任すへしと、此に私かに志を起し其後専ら此の事の調査にかかりけるに」とあった。
帰国後「明治六年三月文部省中に醫務局を置き、余は其の局長に任じられ醫制取調を命せられぬ、これぞ本邦衛生事業の端緒なる」このとき「醫制を起草せし折、原語を直訳して健康若しくは保健などの文字を用ひんとせしも露骨にして面白からす、別に妥当なる語はあらぬかと思めぐらししに、風と荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれとも字面高雅にして健康保護の事務に適用したりけれは、こたび改めて本局の名に充てられん事申出て衛生局の称は茲に始めて定まりぬ」とあった。
そして最後に「回顧すれは余は衛生局長の職に在ること二十有二年、今其の間の事業成績を追想するに」とあった。名前のようにその職が「長く与え」られたのでこの間の事業がわが国での「衛生」の概念を造っていったのであろう。
「明治医事往来」(立川昭二著、新潮社、昭61)に色々のエピソ−ドが語られている。
「衛生という一語が、当時の人びとに、どんなに新鮮なものと響いたかを、世相に敏感な川柳にひろってみよう」として「富国強兵 衛生の力瘤(ちからこぶ)」などをあげている。
私として興味があったのは
1)「健康もしくは保健などの文字を用ひんとせしも」という点である。明治のこの時期に「健康」あるいは「保健」が用いられていたのであろう。それに代わって「衛生」を局名に用いたのは、現代風表現に従えば、ダサイ言葉ではなくナウイ言葉をあてはめたというべきであろう。それがうまく当たった、行政的には成功したとみるべきか。
東大に衛生学講座が誕生し、「衛生学」におちつくまでに「健全学」が用いられたということもある。
2)「医制を起草せし折柄」とあるが、「尻にしかれた相良知安」に「日本における医学教育・医療制度を考える上で、忘れることのできない人物であると思う」と書いた明治6年に初代の医務局長で長与の前の局長の相良知安の「医制の草案」あるいは「護健師」のことが「松香私志」に全くといってよいほど触れられていない理由がわからない。相良知安が不幸と思われる人生を送ったこと合わせ考えるといまだに気になる点である。
3)「其の本源は醫学に資れるものなれば醫家出身の人ならでは任すへき様なし」という点である。
今保健所長の資格が「医師」にかぎるかどうかという問題とからまっていることであるが、米英での経験から長與がそう考えたとすればそれはそれなりに意味のあることだと思うのである。
第2次大戦のあとの世にいういわゆる「DDT革命」(占領期の医療福祉政策を回想する:C.F.サムス著/竹前栄治編訳、岩波書店,1986)の日本占領時代に各県の「衛生部長」が医師出身の技官でなければいけないと、私の先輩方が相次いで衛生部長になったことがあったが、講和条約締結後いくつかの県の部長が技官から事務官になって昭和28年頃「公衆衛生はたそがれか」がささやかれた時代があったことを思い出すのである。
サムスは「私は医学を学んでいた時も、また軍医の職務についてからも、人種・宗教・肌の色・敵味方の区別なく、誰でも平等に医療をほどこすように、欧米の規範に沿って教育されてきた」と書いている。これはヒポクラテス以来の欧米の医学の「エトス」(倫理)の流れが読みとれる。またサムスが「この医学教育審議会の長は決断力に富んだ草間良男博士であった。彼は将来、新時代の医学教育の父として知られるようになるであろう」とあった草間先生のことは前に書いた。
保健所が戦後になって性病診療所として考えられていたのにわが国の技官達がわが国では結核対策が必要だとくいさがってそれを認めさせ、いざ方向転換されることになった時、健康に関する第一線の行政機関としてGHQの若き技官達が何でもかんでも保健所にもりこんだというのを読んだことがある。保健所の事業拡張改善を1947年4月に行って、9月には保健所法の改正になっている。
「保健所は何をするところか」が衛生・公衆衛生の講義にまた医師国家試験の問題にでたりした。
わが国では戦後欧米の様子がわかったのであるが、1948年4月7日に世界保健機構(WHO)の憲章が発効し、創設されたことを忘れることはできない。
公衆衛生学雑誌が昭和22年創刊されてその第1号に「世界保健の大憲章(A Magna Carta for World Health)」として紹介された。1946年6月19日New York市に於いて国際保健会議がもたれたとある。日本は国際連盟から脱退していたので、この立案には関わりはなかった。伝染病の情報交換からうまれた国際的な健康に関する機関が、いわゆる国際連合から独立した専門機関であるWHOをつくり、それに健康の憲章(Constitution)が掲げられたことは「Health」の定義に、また日本語訳の「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と国際的な定義を与えられたことに意義があることだと思う。「疾病観の歴史的展開」が委員達の頭にあったことが推察される。
この「健康の定義」が戦後から今日までの教育の中で繰り返しいわれきた。色々な方がとくに衛生学公衆衛生学畑の方々の「健康」に関する論説が展開されている。
私は講義の中でこの定義が今後どう変わってゆくのか、諸君だったらどういう案を出すかなと喋った記憶があるのだが。
「WHOの活動とその理念」について川口雄次君が書いている。
彼は昭48年慶大医卒でまだWHO本部国際部長の主席医官でいると思うが、雑誌「公衆衛生」(61,612,1997)の特集今、WHOの歩みから学ぶものに書いていた。
「全く独立した保健医療に関する最高の世界の意思決定機関であり、・・・健康と保健医療という問題がすべての国の最大の関心事の一つであり、また政治的には中立的な立場にあると考えられることの反映である」と書いていた。「政治的中立」ということは意味のあることだと思う。また「World」も意味のあることだと思う。
「健康」が話題になると、「健康の水準」(levels)がWHOグル−プによって報告され、それをいち早く東大勝沼・小泉教授らによって日本にも紹介・検討された報告がでた。
昭和27年に厚生省医務局長になられた曽田長宗先生から話を聞いた記憶があるのだが、「生活標準および生活水準の国際的定義および測定に関する報告」(国際連合1954年)(科学技術庁資源局資料第29号昭35)の中の項目に「健康」があることも記憶にのこった。
この報告は1953年国連事務総長がILOあよびUNESUCOと共同で招集した専門委員会の報告であり、この報告にもとづき、ILO、FAO、WHO, UNESCOその他国連関係各専門機関は、それぞれ分担項目について詳細な研究を進めた。
「生活標準の向上」の促進は、国際連合憲章のなかに定められている目標であるが、「生活標準(standard of living)」「生活水準(level of living)」の用語およびこれらに関連する諸概念を明確化することに努力し、提案された構成要素12を示していたのである。その第1に「健康」があった。ここに「健康」の意義を私なりに理解し、私の「衛生学」の中に置いたのである。
提案された構成要素とは、1)健康、2)食糧および栄養、3)教育、4)労働条件、5)雇用状態、6)総消費および総貯蓄、7)輸送、8)住宅、9)衣料、10)レクリエ−ション、11)社会保障、12)人権としての自由、であった。
沖縄が12)にあげられた「人権としての自由」があるのかなどと講義の中で喋った記憶がある。
そのWHOの初期における活動は各種の伝染病の予防と対策が中心におかれ、天然痘に対するアプロ−チに成功したが、「プライマリヘルスケア」「ヘルスプロモション」などについで「すべての人々に健康を(Health for All)」がいわれ、「エイズ」と「タバコ」がその中の大きな問題だと考えられていると承知していたので、先の「厚生省はカルト集団か」の中で述べたような考えになったのである。
それにしても「病は世につれ 世は病につれ」と思うのだが、WHO誕生以来50数年たった今、「健康の定義」の再検討の作業が進んでいることは、WHOのの中嶋事務局長や川口君の話から承知していた。「衛生・厚生、そして今」の中で書いたのだが、「dynamic」「spiritual」という2語が入るという話があった。
このことにについて弘前に来られた伊藤雅治局長から、資料を戴いたことを最後に書いて置きたいと思う。
1)中嶋事務局長時代にWHO憲章を総合的に見直しのための委員会が設置され、健康の定義のみならず理事国の地域配分や予算制度など広範にわたって論議してきました。
2)委員会として結論を得て、理事会に報告されたものもありますが、健康の定義については今年(平成11年)の総会で論議することになりました。
3)ブルントラント新事務局長は、WHOにとって憲章改正問題以上に重要な課題が山積しており、総会の議論が憲章改正問題に多くの時間をさくべきではないという判断もあり議題全体を棚上げすることとしたものです。 とのことであった。(2000213kennkou)