読売新聞(11.11.29.)の「地球を読む」に掲載された論説で、山崎正和(まさかず)氏(以下Y氏と略す)が「世界の先進国で(健康カルト)が荒れ狂っていること」にふれ論じていた。どうも厚生省が提唱している「健康日本21」という総合政策が気にいらないらしいと読みとれた。
本文の中には「カルト集団」とは書いていないが、「英文デイリ−・ヨミウリに掲載」とあったので、早速インタ−ネットでみたら英文の方には「The Japanese Health and Welfare Ministry is no exception」とあったから、厚生省も「健康カルト」の世論の例外ではないというご本人の気持ちが論説を書かしたのであろうと読んだ。
何故Y氏がそう考えるのか、彼の論点は何か。論説している内容が私がかねがね考えていること、特に「疫学」の理解とぶつかる面があるので、少し勉強してみたいと思った。
「除夜の鐘を聞きながら 西暦2000年新年のご挨拶を書いています」とホ−ムペ−ジに送り、その中で「このことで少し頭に来て、今少し勉強しています」と書いたのだが、今回はその勉強の報告書であり、私の感想文である。
「劇作家」とあったY氏のことは私は知らない。会ったことはない。紹介の履歴をみたら1934年(昭和9年)京都生れとあったから、私より13歳年下である。京大文学部哲学科卒とあった。ある新聞には専攻は美学ともあった。Y氏を意識したらこの年末年始の新聞各紙に多く登場していた。今東亜大学大学院教授らしく、「新しい(人間科学)をもとめて」というこの4月開校の大学の一面広告の中の座談記事にも登場していた。
今回の話題に関係のあるところを考えてみると、どうやら「この春(平成10年)、厚生省保健医療局長の名で、前代未聞の異様な諮問会議が召集された」ことにきっかけがあるらしいと見た。その会議は「二十一世紀のたばこ対策検討会」である。
「前代未聞」と書かれれば何が「前代未聞」かと当然考えさせられるのだが、その書き出しではじまっている論説を「国家と禁煙」という題で毎日新聞(10.4.5.)に書いていた。「時代の風」の中で「権力の”文化善導”に異議」と論じていた。
さらに「再論たばこと文化」(毎日10.5.10.)「望まれる優雅な分煙の実現」につづき、そして「地球を読む」(読売11.11.29.)の中で「健康崇拝」「国の後押しは危険」「生活、文化の画一化招く」となっていたことが分かった。
また年があけて「時代状況」(毎日12.1.10.)の中で「国家の役割縮小が急務だ」「情報より知識の再構築を」の毎日論説委員とのVS論議につづいていることがわかった。
これらが私の目についたY氏の論説であったが、この間、「たばこ対策検討会」の議論を伝える記事が各紙に登場していることが分かった。
「喫煙派、反喫煙派:真っ向対立」「3回目の会合も具体案に入れず」と産経新聞(10.4.23.)は伝え、「たばこは文化か健康問題か」という題で「連想するのは反捕鯨運動」(山崎)「危険度高く放置できない」(内山)「個室以外は全面的禁止に」(加藤)の3氏の意見が見出しとなった朝日新聞(10.6.18.)があった。日本医事新報(10.9.5.)の「お茶の水だより」には「たばこ対策反対派のあくなき抵抗」と「実りの少ない論議だったかもしれないが、検討会で防煙・分煙の必要性が全員一致で確認されたことはせめてもの救いだったと言える」と結んでいた。また「健康日本21企画検討会」の高久史磨(たかく・ふみまろ)座長からの論点(読売11.12.14.)で「正しい健康情報が必要」と「山崎氏が心配されるような点は、企画検討会でも十分気を付けるつもりであるが、今後、国民がこの構想に強い関心を持って見守って欲しいと願っている」と述べていた。
さて本題にもどって、Y氏の意見はどのようなものであるのであろうか。
その点新聞各紙が伝えたものとは別に「21世紀のたばこ対策検討会」の平成10.2.24.の第1回から平成10.8.7.第8回までの毎回約2時間の議事録が、各委員の発言そのままにすべてネット上に公開「http://www.mhw.go.jp/shinngi/....」されていることであった。200枚近くになったが。
このような議事録そのものが、各委員の名前記載の上発言そのものが公開されていることは始めてではないかと思うが、厚生省の一つの判断であろう。
「高原課長はこれからの行政はこうあるべきと論議を歓迎している」(産経11.4.23.)とあったが、厚生省部内でどのよな判断があったかは知ることが出来ないが、今進行中の「裁判」とからんでの厚生官僚それも技官の「ひらきなおり」と思ったりするのである。
議事録はちょとした読み物で、これを読んでいると、以前学内紛争の時の評議会の時のことを思い出した。また「脳死臨調」の時の議論がどうであったかを知りたい気がした。武見医師会長時代の医師会の理事会の記録が各理事の発言そのままに医師会報に掲載されていたことなど思い出しながら読ませて戴いた。
Y氏もこの公開のことにふれ「私の後ろには、国民とジャ−ナリストの方々がおられる」と発言されていたが、しかし国民の一人一人が新聞の記事とは別に一人一人の発言も知ることができるのである 議事録には延々と各委員から意見が述べられおり、それぞれ色々と興味はあるのだが 以下Y氏が新聞紙上に書いていた論説と検討会の議事録の中でのY氏の発言をネット上で読んでの感想を書き留めておく。
まずY氏が書いた何が「前代未聞か」ということであるが、座長の選任の時のY氏からの論議から始まっていることが分かった。野中委員はこの時の発言を「議長!! 異議あり」の発言で始まったと述べていた。
「自分が何故委員になったのか」
「たばこについて好意的、あるいは中立的な委員は極めて少数であって、大部分が嫌煙あるいは禁煙という立場に立っておられる委員である・・そういう異様な構成になって・・公正な審議を進め方をお願いしたい」
「アメリカを中心とする諸外国でいろいろな世論が高まっていることは私も承知しておりますけれど、そういうたばこの性質について、それがいいとか悪いとかということについて無前提に議論を始めていただきたい」と要望を述べた。
またそのあとの事務局(高原)から今までの経過・資料を説明を長々としたのが気に障ったようである。
「厚生省の政治的意図は明白であったが、私はあえて委嘱を受けて出席することにした。たばこ問題については、かねがね世界の思想風潮に危険なものを感じていたし、文筆にたずさわる人間として、これに警告することは義務だと考えた」
「局長がたばこの害毒を自明の事実としてあげ、諸外国に比べた日本の対策の遅れを指摘し、来世紀に向けて禁煙を推進する具体案を諮問したのである」と書いていた。
この検討会が「諮問」であるかどうかははっきりしないが、議事録を読むと、平成7年に公衆衛生審議会より意見具申された「たばこ行動計画検討委員会報告書に基づき、分煙対策、防煙対策、節煙対策を3つの柱として」という前の委員会で論議されたことを受けて、「具体的方策について提言することを目的」とした検討会に読みとられるが、始めて出席したY氏はそれにかみついたようである。
よくあると思われるし又そのような経験は私にもあるが、県とか国の委員会の「学識経験者」の委員になった時、自分の良心に従って意見を述べてきたつもりではあるが、いわゆる「官僚作文の原案」に従っての「シャンシャン会議」ではなかったことは経過からみると読みとれる。その点はよかったのではなかったか。
しかし平成11年8月に開催され公衆衛生審議会総合部会において報告された「21世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)」の原案(これもインタ−ネットでAcrobat Readerをつかって読むことができるが)をみると、その中の各論の「たばこ」の分科会には別の委員が任命されていて、Y氏が出席した「たばこ対策検討委員会」のまとめは参考にはされたかもしれないが、別の「健康日本21」の筋道があるようである。
「厚生省は大まじめである。政策は整然と(戦略計画)と(執行計画)を立て、前者は(全体的状況を把握できる立場の者が策定する)というから、これは明らかに権力による国民精神作興の企てである」という。これがY氏のいわんとするところと思われるが、最近「疫学」の中で言われるようになった「ストラテジイ−」(strategy)の邦訳が「戦略」となっていることが気にいらないのはY氏の生まれ育った年代の人の考えなのであろうか。
第1は「mens sana in corpore sano」の意味とその解釈である。
これは「健全な精神は健全な肉体に宿る」という健康句について「解説現代健康句」(津軽書房)に書いたことなのだが、Y氏の論説・座談の記事の中の発言をみると「宿る」と考えているのではないかと思われる点である。
「精神と肉体の関係についても(健全な精神は健全な肉体に宿る)という箴言が古くから知られている。この箴言が正しいからこそ肉体の健全さの質を権力が決め、結果的に精神の健全さを均質化するのが危険なのである」と書いている。
また「新しい人間科学をもとめて」の広告の座談の記事にも「昔から健全な精神は健全な肉体に宿ると言いますが、これは逆もまた真なりで」と「健康やスポ−ツも文化」の中で述べている。
私のような専門外の者でも、この言葉がロ−マの諷刺詩人ユリエナ−リスの詩の中の「・・・こう願うがよい。健全な身体に健全な心を宿らせてくれと・・・」との願いの文章であると承知しているのだが、文学部の哲学科ではどう教えていたのであろうか。
第2は第1と関係することなのであるが、医学的研究の積み重ねられてきた「科学的証拠」をどの位理解しているのかという点である。
「そもそも、たばこが健康に有害かという医学的な問題は、私は専門外であるからここでは深く入りはしない」と述べているY氏が「だが検討会の資料を見るかぎり、論拠は統計的事実か誇張された実験の結果であり、統計については反対の資料もあるから、まだ論議のあるのは確実である」「とくに厚生省担当者の主張を聞くと、原因結果の論理学に初歩的な無知があって、単に平行的に二つの事実が頻発すると、そのあいだに因果関係があるのだという」と書いており、第2回の会議でも「原因の定義」について発言している。
「聞き飽きた常識論だが、じつはこの常識はどれも誤りを含んでおり、前提となる知識も歪んでいることは、あまり知られていない」と「国家と禁煙」の中でY氏は書いているが、そういわれるのはどのような根拠でいわれることなのかは分からない。
Y氏が「厚生省担当者の主張を聞くと、原因結果の論理学に初歩的な無知があって」と書いているのはどういうものであろうか。
このY氏の「原因の定義」に関する発言は「疫学者」が一番苦労してきた点で、同時に「リスク因子」についての理解も、「疫学者」のいう「リスク因子」がどれだけ理解されたか疑問の思う点である。
「あなた確率を信じますか」と私は書いたのだが、とくに「疫学者」たちが「ああだこうだといいながら」いろいろ苦労して数十年展開してきた「追跡的疫学調査」の成果を理解されての上での発言とは受け取られない。
後の会議で富永委員から教科書にものっている「原因の定義」も「リスク因子」についての考え方も「世界的に認められている」と紹介されたが、Y氏には分かって戴いたかどうか分からない。それでいてご自分の考えで論議を展開されていることが読みとれる。
それにしても「疫学」「疫学」という発言、「疫学の専門家」という発言が多かったのは事実だが、また一方その「疫学」についての不信感、とくに「平山疫学」に対する不信感が目についた。彼が死んでしまった今となれば、彼を師と思っている富永委員の資料展示もどれだけ理解されたかは不明である。
第3に「たばこは文化だ」という発言・主張にも問題があることが感ぜられた。
「たばこは数百年の歴史を持つ嗜好品であり、近代国家や厚生省が誕生する以前からの存在する文化である。文化は人間が創造し、しかもいつしか習慣として人間を支配する力である」と。この考え方自体は私もそう思うのだが、だから「たばこ」には手が着けられないと思うという前提には疑問がある。
この会議には「何故たばこなのか」の論議のほかに「塩や砂糖はどうなのかと」という議論もあって、個人的に興味をさそったがY氏が「塩」についてどういう意見をもっているかは読みとれなかった。
かつて1970年ロンドンでの世界心臓学会の席上発表した内容についてテレビインタ−ビュウ−を受けたとき「Civilization is saltization」と述べたことを思い出した。
また厚生省の機関誌「厚生」(昭60)に「成人病の文化論的考察」の中で、この時は特に「食塩」について書いたのだが、その最後に「かつてタバコが(万能薬)として登場して以来500年、現在最大の悪として考えなくてはならぬ時代になったのではないだろうか」と書いたことを思い出した。たかだか数百年のたばこ文化にたいして数千年の食塩文化に手をつけなければならないと述べたのだから。
Y氏が今まで積み重ねられてきた「医学的研究」「疫学的研究」をどれだけ理解されたがが、疑問である。
私自身も「私がたばこをやめた日」に書いたように、「たばこと健康」との関連について「ショック」を受けてから30数年たった。その後衛生学の講義の中で「たばこと健康」との関係についてふれてきたのだが、国民を背負ってと自負されるY氏の理解はどうであろうかと思うのである。
こんどの検討会の中でも出てきた「防煙」も、消防上の言葉かとも思ったが、富永委員の解説によれば「防煙とは喫煙経験のない者、特に未成年者の喫煙開始の防止をいかに防ぐかということと資料の中に明快に書いてある」とのことである。
「依存性」も大変むずかしい言葉で、一般名詞なのか医学的名詞なのが議論の中では明確ではないように読みとれた。
「私はたばこが正統な文化であり、依存性は文化の本質的な要素だと主張」「麻薬の中毒性とたばこの依存性は医学的にも異質のものであるが、何よりも麻薬は文化ではないという一点で、たばことはおよそ無縁の存在なのである」と再論たばこと文化(毎日10.5.10.)とY氏は書いていた。
WHOが「以前は酒・たばこの依存性にたいし(中毒)(poisoning)といっていたのに、1957年ヘロイン・コカインなどの依存性を嗜好(addiction)より程度の軽いニコチン・カフェイン等の習慣性使用には習慣(habituation)、1964年には区別を廃止して依存性(drug dependence)(精神的依存・身体的依存・身体的依存時の増強・精神毒性)」との理解を示した経過をどのように考えられるかと思うのである。
第4に「予防医学」に関するY氏の見解である。
「予防医学という考え方は一方では大変重要な、つまり益のある思想ですが、一線を踏み越えると非常に危険な思想なのです。ご存知のように健康というのを国策として取り上げて、これを大々的に打ち出したのはナチスなのです。ナチスは単に衛生学に手を出しただけでなく、最後には優生学まで踏み込みました。これは優生学というのは当然ながら彼らの観点では予防医学であったわけです」と発言している。
これを最後のまとめの段階で事務局が「予防医学はナチスの思想につながる危険な思想」とまとめた時「こういう風に書かれておりますが、・・・この表現だと予防医学はナチスというふうになって厚生省自体の存在が怪しくなるのではないかという感がします」という仲村委員の発言が記録されている。
「予防という観点から国民の生活習慣の細々にまで政府が手を出すということは非常に危険な問題なので、お医者さんとしてはさぞ歯がゆいでしょうが、病気になった人間だけの面倒を見ていただきたい」がY氏の気持ちのようである。
この点は極めて重要な点であると思うが、以前「今疫学を思う」「21世紀へむけての提言として(疫学による予防へ)」を書いた自分としてはひっかかる点である。
厚生省は何をするところか、その存在自体が問われる問題を提示されたようだが、歴史的にみれば、明治維新のあとの「衛生」、そして「厚生省」、WHOの誕生と健康についての大憲章、それを新憲法の中に取り入れた公衆衛生、その厚生省が「成人病」から「生活習慣病」、そして「健康日本21」といずれも「行政上」のテ−マであると承知しているが、これがどのような形で今後展開されることになるのであろか。
今回の検討会もわが国も代表をだしている1988年の第40回世界保健機関(WHO)総会において「世界禁煙デ−」(World No-Smoking Day)とすることが決議されたWHOはじめ医学会諸学会の成果を受けての厚生省召集の検討会であると読みとれるが、Y氏はその前提までもとへもどせとの主張・意見のように読みとれるのだが如何なものであろうか。
このような主義・主張が新聞紙上に展開されると、読者、それも購読新聞によって異なることも問題であり、「新聞は何を伝えてきたか」の問題にもなるが、新聞社側が何故筆者にY氏を選んで書かせたのかも分からない。その意見そのものがわが国におけるY氏のいう「空気」を作り出してくるのではないか。厚生省側がY氏を委員に選んだ理由もまだ分からない。またY氏はコンピュウタ−による新しい大学をつくるということに一役かっている広告を読んだが、「人間科学」をどのように捉えているのであろうか。広告料は大変なものであったと推察するが、これでは「カルト大学」でもつくろうとするのではないかとの感想をもつのである。
それにしても検討会も終結していないのに、厚生省の人事異動があって、会議召集者の局長が小林局長から先日弘前に来られた伊藤局長に、また事務局も岩尾課長に変わった。厚生省側の原案を書いた責任者は誰なのであろうか。
1988年(昭和63年)第1回「世界禁煙デ−」標語「Tabacco or health:the choose health」(たばこか健康か−健康を選ぼう)から年をおって13回目の平成12年5月31日「世界禁煙デ−」に向けて、WHOは「Tabacco Kills−Don't be duped」とした。
中嶋事務総長にかわって事務総長になったグロ−・ブルントラント・ノ−ルウエ−元首相(彼女は九大名誉教授広畑富雄先生のハ−バ−ド大学公衆衛生学部で同級だったとか)が「私はたばこは人殺しである」と述べたと伝えられる「たばこ問題」を受けての標語と受け取られるが、直訳すれば「たばこは人を殺す、はかりごとの犠牲になるな」となるこの標語のわが国としての標語を募集している。どんな日本語になるのであろうか。(20000117kousei)