私と「三越」

 

 テレビを見ていたら、買い物入れ袋の一方に「三越」が、もう一方に「高島屋」が印刷されていて、このライバルのデパ−トが一緒になったことが、昔のことを含めて放映されていた。

 私にとっては「三越」も「高島屋」にもそれぞれ思い出があるが、ここでは「三越」についての「記憶」を書いて置こうと思う。

 父が三井物産に勤めていたこともあってか、「三越」は身近であった。

 父の勤め先には行った記憶はないが、すぐ隣にあった「三越」には記憶がある。また通りの向こう側にあった食堂街で「うなぎ」か何か昼飯を一緒に食べた記憶と共に。

 それは私が例の慶應義塾幼稚舎の制服を着ていたことと共にあり、私は昭和3年入学,昭和8年卒業であるから、今から何十年も前のことの記憶である。

 三田綱町にあった自宅から歩いて、徳川邸のお屋敷の側の細い道を通って、玄関前の広場へ出る。清水さんの家の前、野上医院の前を通って、三田通りへ出て、それから細い道を通って、省線田町駅へ出て東京駅へ行くという道筋で、森永工場が田町駅前にあった。今も時々夢に出る道である。

 東京駅は今丸の内側の国鉄建物の前辺りに、「三越」への専用のバスが迎えに来ていた。

 三越へ着くと、入り口で靴の上に布製の「オ−バ−シュ−ズ」の靴覆いをして店に入った記憶がある。そのうち靴のまま入れるようになった。30年前ミネソタ大学へ行ったとき、冬になると靴の上に「オ−バ−シュ−ズ」を履いたとき思い出した。

 三越での第一の記憶は、父が買い物をして支払いをするとき、「サイン」だけで済ませていたことで、奇妙に心に残っている。三井物産と三越はお互いに信用されていたのか、現金を支払わない父を子供心に見ていた。

 第二は三越食堂で食べた「ヤキソバ」の記憶である。わが家での昔父の勤務先の台湾からの「ビ−フン」料理とは違った、やや固めの「ヤキソバ」の記憶である。いつも私の注文はそれであったと思う。

 第三は「三越劇場」で行われていた「名人寄席」へ月に一回はかよって聞きに行った記憶である。父にきていたと思われる切符があった。それで一人でよく聞きにいった。誰がどんな話をしたか、具体的には誰それとは覚えてはいないが、当時名人と言われていた人の話であった。今もラジオやテレビでも落語のような芸には聞き耳をたてる自分ではあるが、自分ではしゃべれないにしても、話の調子にはいつも感心する自分ではある。

 富士山を背景に越後屋の店が繁盛していることを示した錦絵は絵で見ただけであるが、私の子供心には、すでに金ぴか豪華の建物と入り口にあったライオンがあった。イギリスのロンドンで後日みたライオンと同じ置物がシンボルであった。

 「今日は帝劇 明日は三越」のキャッチフレ−ズの時代があった。

 地下鉄の銀座線が通るようになって、地下鉄の駅からそのまま三越に入るようになったのも、新しい感覚であった。

 銀座支店とか新宿支店とか各地方都市に三越支店ができて、それぞれ思い出があるが。

 友人の兄が就職したこともあり、ブランドとしての三越の価値が不動のものになった時代があった。店の品物を入れるだけで厳重な審査があり、それでいて「マ−ジン」の割合が他と比較して割高であるのだとの会話があったことが思い出される。

 終戦後慶應の衛生で存知あげることになった三越内の歯科診療所におられたS先生、またその先生の仲良しのM女先生と二人で、三越の美術部で売られていた「ドガの絵」勿論複製であるが、私が海外留学から帰ったあと今の城南の家を造ったときの新築祝いに戴いた。シカゴでみた「ドガ」の絵に印象をもって以来世界中の美術館で「ドガ」をみてきたといった私の話を覚えていて下さったのか。

 日本のデパ−トが「何でもあり」の店であったのに、アメリカへ行ったら有名デパ−トといわれていた店でも「資本の系統」にしばられているのをみて、日本とは違うなと思ったりしたことがあった。

 トップの不祥事が話題になった頃からか、バルブがはじけた頃からか、世の中は変わってきた。

 それでもお中元やお返しにはいつも「三越」という友人もあって、私の育った時代はそんな時代だったのかとの思いである。

 ちょうど「明治に生まれ 大正、昭和に生きた おしん」の総集編を4夜連続でみた印象とだぶって、「大正に生まれ 昭和、平成に生きている」私の思いは、「三越」とだぶるのである。(20000325mitsukoshi)

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